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教師の友人関係

森信三『修身教授録』致知出版 第10講 尚友

私の母も小学校教師だった。母は、職場に友人をつくり、旅行に行ったり、友人を家に招待して飲み会をしていた。
そういう人は学校にも結構いる。
職場の同僚を家に招いたり、休日に一緒に出掛けたりする。

そういう私は、というと、職場に友人と呼べる人を作らなかった。
もちろん同僚と飲みに行くこともあったし、そういう時間は楽しかった。
あくまで職場での人間関係を良好にする、というつきあいであり、一歩進んで友人という形ではないのである。
そもそも職場の同僚は、私にとっては困難に向かう仲間であり、仕事のない休日に一緒に出掛けるのを好まなかったし、家に招いたりするのも好まなかった。
つまり私には職場には友人はいなかった、ということになる。
こう書くと、何か寂しい人間のようだが、自分自身を寂しい人間だと思ったことはない。
もともと中学、高校時代の友人もいたし、教師2年目には結婚して子供もすぐにできたし、友人は外にいたからだ。しかもその友人は教師でもたくさんできたし、教師ではない人もたくさんできた。

では、なぜ私にとって職場で友人と呼べる人がいなかったのか、また、作らなかったのか?

すなわちその友人が、道の上からは、自分より一歩ないし、数歩を進めており、したがって自分は、その智において大いに尊敬すべきものを認めるという時、初めて友を尚ぶとなるわけです。
・・・中略・・・
かくして今友人関係において、真に尊敬するに足る友人とは、結局は道の上の友ということでしょう。したがって道の上の友ということになると、結局は死をともにする場合が多いと言えましょう。

P70~71

この森先生の言葉をもとに考えると、教師が持つ目標や志を同じくするとともに、同じ人を尊敬し共に学びあうというような同僚がいなかったからだと考えられる。
実際にそうだった。
教師はそれぞれ様々な思想、信念をもって教育活動を行っている。
子どもへの指導を見て、あぁこの人の指導は根本的に自分とは異なるな、と思うことも多いのだ。
ただ、一緒に子どもたちを指導する仲間であり、仲良し集団ではなく、チームとして働きたかったのだ。

もちろん先ほども申したように、一口に友人と言っても色々あるわけで、昔なじみの旧友もあれば、同級生という関係もあり、また家が比較的に近いところからして、おのずと親しみあうという友人もありましょう。また同級生と言っても、そこには読書の友あり、運動の友あり、といった調子で、実に千差万別と言えましょう。これは諸君らが、他日世の中へ出ますと、さらに複雑になるわけです。

P73

というわけで、私には職場に志を同じくする友人はいなかったが、外には多くできた。
同じ教育研究サークルの友人ができた。さらに、そのサークルは全国的な組織ということもあり、様々な県に友人ができた。
地域の自治会でも友人ができた。
大学院に行ったときに友人ができた。
つまり、ある志を持って外に出てみることなのだ。
そうすると、師や志を同じくする人と出会える。
その中の何人かと友人になる。
そうやって人間関係を豊かにしていった。

こういう私のような教師は意外と少数派?な気もするが教師の友人関係の一事例という感じで誰かの参考になったらうれしい。

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