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せっかく人として生まれたのだから

森信三先生の『修身教授録』第2講「人間と生まれて」を読んだ。

われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として性をこの世に受けたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外いないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり、生まれがいがある日々を送る以外にはないと思うからです。

P17

森先生は人としての人として生まれたことの意義を自覚することなしに、人生の根本目標を実現することはできない、という。そしてさらには、互いにいきがいや生まれがいを感じながら生きてはいけないという。

では、どうすれば人として生まれたことの意義を自覚することができるのか?

しかも人生の意義を知るには、何よりもまずこの我が身自身が、今日ここに人間としての性を与えられていることに対して、感謝の念が起こらなければならぬと思うのです。

P20

この世の中にはたくさんの生き物がいる。その無数にいる生き物の中で、数少ないこの人間に生まれることができたか。それは何ら自分の力によらないことを思うと、確かに人として生まれたことは尊いものであると感じる。

仏教においては、このことを「人身受けがたし」と言われてきた。自分自身がこの無数にある命の中で人として生まれたことそのものへのありがたさを感じていきたい、ということなのである。

高校時代の恩師が、悪い状況があったら、「せっかく〜」をつけて考えろ、ということを教えてくれた。「せっかく〜」がつくと、どんなこともプラスに考えられる。この教えはある種私の生き方の根本となっている。

「せっかく人として生まれたんだから!」という言葉をつけることを心の習慣にしたらよいと思える。せっかく人として生まれたんだから〜してみよう!というポジティブな感情になるはずだ。

先日、セミナーで講師を行っていた。その際に、4月に決めたことをやり通すことができなかった、ということを多くの先生方が述べられていた。
4月はあんなクラスにしたい、こんなクラスにしたい、こんな実践をやって子どもたちを成長させたい、〜ができるような子たちにしたい・・・
様々な夢を描く。しかし、教師も人だ。厳しい現実を目の当たりにする。
様々に手を尽くすが変わらないこともある。
そうすると諦めの心も出てくる。
そうする中で、せっかく教師として生きられているのだから、ともう少し頑張ってみようと思える。
教育は薄皮を重ねるような営みだ。成長の実感を得られないこともある。
「せっかく教師となったのだから」というあと一踏ん張りを支える信念の根本に、「せっかく人として生まれたのだから」、という言葉を添えていければ、そのあと一踏ん張りをさらに支えてくれると思う。

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