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Love's Secret Domain -The haunted and intimate world of Linda³- 日本語文:『リンダキューブ』『リンダキューブアゲイン』について

[概要]
オーストラリアのWebメディア『The Aither』にてプレイステーション用ソフト『リンダキューブアゲイン』(1997年9月発売)の記事を書いた。せっかくの機会なので、ここに日本語文を置いておく。
書くにあたって、整えられた日本語の文章を英語にするのではなく、最初から英文で書くことに挑戦してみたのだが、見事に撃沈した。伝えたいことを箇条書きにして、それらを繋げることで節やパラグラフへと拡げていくやり方にも限度がある。事実を伝えるだけなら機械翻訳でいいなんてことはなく、意味を翻訳するには一から文章を書かねばならないと改めて実感した次第。というわけで(?)、文法的な間違いなどに関しては、原文は逐一修正されていくだろう。
日本産の奇妙なゲームを文学的に紹介するという主旨なので、ゲームシステム自体に触れた個所はかなり少ない。『Linda³』のゲームシステムの秀逸さを考えるとピントの外れた評価の仕方ではあるのだが、まあ四半世紀前の古典だからと大目に見てもらうしかない。また、ここでは英文以上に加筆していった結果、主旨から外れた文章になってしまっているのでそこも留意されたし。

『リンダキューブ』(PCエンジン)  1995年10月発売。国産のゲームで初めて「18歳以上推奨」のマークが付けられた…とされている。
『リンダキューブアゲイン』(プレイステーション)  1997年9月発売。『バイオハザード』シリーズなどでお馴染みの注意喚起シール付。製作者曰く「(PSの倫理規定において)SONYにはリンダ以前・リンダ以降がある」とのこと。翌年8月にはセガサターンでオマケ要素の追加や残虐描写の規制緩和がされた「完全版」が発売。

Love's Secret Domain -The haunted and intimate world of Linda³-

 90年代末に生まれたフィクションの中には、独特の終末論的空気を持つものが少なくない。当時10歳前後であった筆者は、意識こそしていなくても確かにその空気を吸っていた。あの頃にたくさん目にしていた(はず)、人類が絶滅するといった舞台設定に妙な心地よさを覚えるのは、10歳の自分が今でも精神の奥底で当時とともに生きているからだろうか。とにかく今日になって『クロノ・トリガー』や『クロノ・クロス』のシナリオを見返すと、記憶が逆流するような展開、いわば未来の世界が「そうなった」ことを思い出すような物語から一抹の寂しさを感じとってしまう。ここでいう「寂しさ 」は否定的な意味でない。良くも悪くもない居心地、そのアンビバレンツな感情の最深だ。少なくとも「楽しい」ということばが取りこぼす感情である。心が開かれて楽になる、一種のカタルシスめいたもの。ひょっとしたら「メランコリー」と呼ばれているものなのか?
 それはともかく、上でゲームを例に挙げたのは、この記事で『新世紀エヴァンゲリオン』の話はしないという宣言でもある。本題は同作がテレビで放映されていた頃に発売されたRPG『Linda³』(「リンダキューブ」と読む)だ。1995年にPCエンジンのタイトルとして発売され、2年後にプレイステーションへ『リンダキューブアゲイン』としてリメイクされた。今となってはリメイク版の方が有名なので、この記事内でも特記しない限りは『アゲイン』を対象にして話を進めている。

 覆すことのできない絶対的な理と対決し打ち勝つという筋書きは、RPGに限らず多くのフィクションにおいて定番である。ゾンビ映画におけるゾンビが伝染病や人種差別のメタファーとして効果的なように、神・摂理・運命といったものもまた、苦闘すべきモノの代替として使われる。それを前にしたキャラクターたちの感情を映し出す鏡としての機能こそ、その本懐と呼べるだろう。『Linda³』においても、運命、このゲームでいうならば「主人公たちの住んでいる惑星が崩壊する」という現実が、いくつかのシナリオとそこに生きる人々の内面を映し出す。そこにいるのは世界を変革せんと抗う姿はなく、ただ己の内なる声に従う人間たちだ。

 まずはゲームの筋書きを説明しておこう。舞台はネオ・ケニアと呼ばれる惑星で、遠い昔に地球から移住してきた人間と、ビースチャンと呼ばれる原住民が共生する星だ。
8年後に巨大な隕石(惑星の住人たちからは「死神」と呼ばれるようになる)がネオ・ケニアを直撃すると判明したため、住民たちは他の惑星への移住を始めていた。そこに、突然謎の石板と巨大な箱舟が地上に落下してくる。 石板には神を名乗る者のメッセージが刻まれており、「男女一名同士が箱舟のクルーとなり、ネオ・ケニアが滅亡する前にあらゆる動物を一組ずつ箱舟に入れて出発するように」との指示が書かれていた。ビースチャンの長老いわく、この箱舟は原住民の言い伝えにあったものだという。
レンジャー組織の一員であるケンは、先に立候補した幼なじみのリンダ(地球人とビースチャンのミクスト)を追う形でクルーとなる。もちろん、箱舟に乗るということは、二人がヒトという動物のつがいを果たすことも意味している。
 箱舟は明らかにオーバーテクノロジーの産物であるが、なぜそれがネオ・ケニアに住む人々の前にもたらされたのか、その理由はあまり詳しく明かされない。 一応は「正史」扱いされているシナリオCでは誰が箱舟を送ったか判明こそするが、どうやってその権利を得たのかまでは分からないままだ。
しかし、ネオ・ケニアの人々は得体の知れない箱舟に対して警戒こそすれど、潜在意識レベルではその突拍子もない存在を認めている。神を信じるかどうかは別として、その概念自体を忘れることができないように。 この論理は『ゼノギアス』で描かれる一トピックを思い出させる。 残忍な無神論者にして敬虔な神性の使徒であるカレルレンは、人類が肉体という檻に閉じ込められているというグノーシス的な認識をもって、悠久の時をかけて全人類を間接的にコントロールした末に個人を一つの総体へとアセンションさせる。この計画の名前は「プロジェクト・ノア」であった。
 『ゼノギアス』のラストはヒトに課せられた「運命」を破壊することで、ヒトが人間として生きることを称揚するものだった。一方『Linda³』のリンダとケンは定められた未来を破壊するのではなく、そのさ中に生命の循環を作っていくことを讃えている(ちなみに『ゼノギアス』の発売は1998年2月)。言い換えるなら、崩壊と誕生は不可分であり、その短い時の中に生があること自体を讃えている。どのシナリオでもエンディングでは隕石衝突によるビッグバンが死と新生を象徴し、「新しい星」に到達したケンとリンダと動物たちがいろいろな意味ですべての起点となっていく。人類は因果として繰り返される未来に向けて種を蒔き続けるのだ。

「美しさ」の指針が3Dのポリゴンに傾いた時代に出た『アゲイン』だが、グラフィックはPCエンジン版と同じドット路線が継続された。これがまた相当動くため、ナメてはいけない。

 「循環」はゲームシステムにも反映されている概念だ。巡る季節や特定の種の絶滅、解体した動物から出てきた卵の孵化など、あちこちでそれが確認できる。ゲームの難易度を大きく下げる金稼ぎ(解体によるツバメカッターやクモチェーン量産とか)は単調なループ作業に傾きがちなのだが、ここもまたミクロな循環になっていてよいオチがついている。
この濃密なストーリーの原型と、ポテンシャルを秘めたゲームデザインは、プランナーの桝田省治によって形作られた。ゲーム本編にはABCからなる3つのシナリオ(正確にはDも含めた4つだが、これはタイムアタック的オマケでしかない)が用意されており、それぞれが同じ登場人物たちによるパラレルな物語となっている。これらのシナリオ間で共通しているのは、普遍的な感情または本能に対する認識であり、ヒトが人間足り得ることの説明にもなっている。いつの時代でも人々の無意識に根ざしている何かがあり、人類が永く語り継いできた物語たちにそれが反映されているということである。各シナリオが短い「おつかい」エピソードの連続で構成されていることはわかりやすい比喩だ。これら無数のお話が連綿と続きながら破滅の時を迎えていくこともまた『Linda³』が示す「循環」の一面だ。
ゲームが発売されて間もないころにアルファ・システムのホームページへアップされた桝田のコメントによると、この構成は「ヨーロッパのあらゆる伝説やおとぎ話をシナリオのパターンに沿って分類した」本から着想を得たという。おそらくはスティス・トンプソンの『民間説話』か、ジェイムズ・ジョージ・フレイザーの『金枝篇』だろう。

http://www.alfasystem.net/a_m/column/index.html
アルファ・システムのコラムページは貴重なアーカイヴになっている。

 少々ブラックユーモアがすぎるエピソードに満ちた『Linda³』だが、それには理由がある。このゲームのアイデアは、桝田たちが取り組んでいた『天外魔境II 卍MARU』(1992年 PCエンジン)の反動から生まれた。この作品の筋書きは正義の味方が悪の味方を倒すという典型的なRPGであり、自分たちで敷いたレールをいかにプレイヤーに沿わせるかが仕事になっていた。この仕事に辟易した桝田たちは、さまざまな意味で非正道を求めた。シナリオには長い一本道ではなく短いサイクルを。ゲームシステムにはプレイヤーによって進め方に差異が出る幅広さを。その結果が仮題「天国の動物園」で、動物園を繁盛させるためにたくさんの動物を捕獲するのが目的のゲームだった。
桝田はこのプロットが「ノアの方舟」に似ていることに気付いた。そこに間髪入れず世紀末ブームに便乗したオカルト本が目に入ってきたとのことで、ある意味終末に依存していた90年代という磁場の力を感じずにはいられない。
こうして『Linda³』では、世界を呑み込む洪水が隕石の落下へと置き換えられ、舞台となる惑星は破滅を避けられない運命にあると設定された。限られた時間と与えられた状況の中でベストを尽くすシチュエーションは、桝田もファンであった『Rogue』(日本では「不思議のダンジョン」シリーズとして知られるタイプのゲームの原典)の本質を反映させたようにも見える。行動する度に現実も同じだけ進んでいく、あの構造である。これはアルファ・システムが2000年に発売した『高機動幻想ガンパレード・マーチ』にも受け継がれている。

 一つの事実にも立場の数だけの見え方がある。おとぎ話として継承される普遍的な物語がそれを実証しているように、『Linda³』に登場する言葉やセリフは複数のシナリオ間でアスペルガー的につながり合っている。修辞に富んだ会話も多く、ゲームを進めるためのヒントでさえも例外ではない。プレイヤーに行間を読ませることの強制は、『Linda³』の魅力であると同時に海外へ正式に輸出されない理由のひとつだろう(頑張っている有志もいるようだが…)。
 ある場面で複数の選択肢から一つを選んだのち、「もし別の答えだったなら」 と想像するのはRPGの楽しみのひとつである。『Linda³』においては、そのパラレルな可能性が、シナリオごとに運命が激変するNPCたちの「選択」へと意識を向かせる。プレイヤーは個々のシナリオから、NPCたちが「愛妻と復縁した」とか「思いを隠さずに告白した」といった個人的な行動によって、その人生を劇的に変えたさまを目撃する。このメタ構成が『Linda³』の物語に、冒頭で述べたような「寂しさ」を与える。『Linda³』は愉快さ、哀しさ、やりきれなさなどが交わる感情の揺らぎを、肯定も否定もせずにただ放出させてくれる機会に満ちている。 リンダやサチコ(シナリオBの主役)はそれを(我々に代わって)実証する存在であり、去来する感情に振り回されていく。まるで歪んだ水さしに水が注がれ、漏れ出していくように。

[※残酷描写あり。再生する際はご注意を] 
ケンの双子の弟・ネクは、桝田が夢で見た「存在しないはずの弟」がモデルになっている。セル画時代のアニメーションがCD-ROMのために解像度を下げられて収録された結果、独特のHauntedな感覚を生んでいる。

 あらゆるシナリオにおいて「愛」の在り方が、家族(親または兄弟の言いかえ)を媒介することで強調されている。特に女性キャラクターは悲喜劇両方のヒロインとして描かれ、神格化の域に達している。これには制作時に桝田が第一子の出産に立ち会い、妻および母という存在に改めて敬服したことが大きく関係しているそうだ。
余談だが、ゲーム発売前は当時起きた神戸連続児童殺傷事件の影響を考慮し、しばらくの間CMは『もののけ姫』や『ロストワールド』のシネアド枠のみで流されたという。自然崇拝的な背景と女性たちの強さを象徴的に描くこと、言うなれば一種のペイガン志向において『もののけ姫』と『Linda³』は近似している。
 シナリオAとBは、愛情を逆進的に走らせる男たち(いずれもボスキャラクターとして対峙することになる)が娘とその母を巻き込んで破滅していく様が描かれる。Aのヒュームは娘の肌の色が自分と違うことに対する不安から暴走する。Bのエモリ博士は妻と娘に去られた孤独に耐えきれず、幼稚に先鋭化する(Aのラストに関してはPCエンジン版のセリフの方が良い出来なのだが『アゲイン』では若干変更されている)。だからこそ、シナリオA・Bのセルフパロディ的な描写に富み、上に挙げた男たち含めた多くの登場人物たちがハッピーエンドを迎えるシナリオCが光るのだ。が、理想として描かれるシナリオの各所で露になる朴訥で男性的なヒューマニズムからは、シナリオ制作に携わった者たちの地が出てしまっていることも事実である。そして、そのむき出しぶりが凝ったシナリオの中で不格好に見えてしまうのはやむを得ない。野営時のリンダのピロートークなどは今見返すと流石にやりすぎである。発売当時、このゲームがいわゆる「ゲーム批評」の対象になっていたのかはわからないのだが、この世界観がどう受け止められていたかは気になるところだ。
 未だに家父長制が社会規範の根底にあり、その一方で資本主義リアリズム~反出生主義といった社会的無力感に由来する負のループが常態化する現在からみれば、『Linda³』で表現されるプリミティブなメッセージはあらゆる意味で古く感じる。そこには60年代に叫ばれ去勢された献身的な愛、"Live and Let Live"に集約される相互扶助的な理想への(ややひねくれた)熱望も含まれており、「今日」に『Linda³』を再考することの意義はこのアンビバレンツな感情に気付くことだと実感した。「世界は救えない」的な皮肉と無関心が根付く90年代的感覚と、家族(一族)愛という曖昧だが本能的な善性(支配性)の両立。本作がこちらをナイーヴな気分にさせてくれるのは、ひとえにこのバランスゆえに、である。ここから見出せた感傷こそ、自分が現実世界の中でバランスをとる起点であると再確認できた。

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