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「誹謗中傷はダサい」というインターネットの末路

インターネット上のコミュニケーション・コンフリクトが起きるたび、全ての原因である「誹謗中傷」を抑止せよ、という提案がなされることは多い。本noteでもいくつかそういったケースを取り上げてきた。

これは「正しい」だろうか?

まず、気持ちはわかる、と答えておく。そう言いたくなってしまう人は決して間違っていないし、そういった人が悪いわけではない。

だが、これを「正しい」としてしまうと、大半の人にとってはもっと酷いことになる。

安易に答える前に、そもそも誹謗中傷とはなにか、そして、今インターネット言論がどういう方向に進んでいるのか、この先に何があるのかについて、考察していきたい。今回は主張の大枠を述べ、今後何回か、具体的な問題を扱って、私自身の主張を検証していきたい。

一応、主張をまとめておく。

・批判と誹謗中傷は第三者には区別がつかない

・誹謗中傷を空気で抑制しようとすると、あらゆる批判自体が無力になる

・人気以外では人を動かせない、一般人にとって危険な社会になっていく。実際、今そうなっている。

1.批判と誹謗中傷の判定不能性

まず、これはぜひ考えて頂きたい論点である。

ある発言が批判であるか、誹謗中傷であるか、というのは客観的には判定できない。

いや、その二つに明らかな違いはあるだろう、と仰る方もいるだろう。

たとえば、日本語学者、三省堂国語辞典編集委員の飯間浩明氏がコメントしている記事を引く。

要約すると、人格を対象とするのが誹謗中傷、行動や発言を対象とするのが批判だと主張されている。そして、誹謗中傷はダサいという空気を作ろう、モラルとして忌避しよう。なるほど、よく聞く内容ではある。

だが、私にとってこの区別は机上の空論としか言いようがない。

そもそも、人格とはなにか。誰かの人格を、第三者はどうやって判定するのか。脳みその中身を調べる?そんなの無理だ。

人格とは、その人の過去の行動や発言によって推論される、その人の内心や生き方に対する仮定、ラベリングにすぎない。

例えば、私ヒラヤマが信用できる人間か、信用できない人間かをどう判定する?私の発言の一貫性とか、匿名でリスクを負わずに発言しているとか、そういうところから判断するはずだ。基準は行動と発言だけだ。

行動や発言を批判することは、世間からのその人の「人格」の評価を毀損することに繋がる。つまり、人格攻撃である。

これは私の独自の見解による難癖ではない。

たとえば、名誉毀損罪は、行動や発言に対する事実を指摘しただけでも成立する。これを理解していない方はインターネットで発言するのは危険だ。

事実、というのは法律用語なので、真実とは限らないのだが、真実である事実の指摘でも、それが個人の名誉を傷つけた場合、公益に資する内部告発などの目的でない限りは、罪に問われる。

あらゆる批判は、その定義からして絶対に人格の評価を変更する。それがマイナス評価になれば誹謗である。

例えば、ある人が人生賭して、大事業を行っているとしよう。自ら広告塔となり人を集め、コミュニティを運営している。それは大人気で、金を払ってコミュニティに参加したい人々がいるとする。それが、あなたにとってやりがい搾取と相互監視で構成されているように見えたらどうだろう。その事業は法に触れないようにうまくできていて、刑事告発は出来ないとする。

これを批判できるだろうか?いや、間違いなくこの事業への批判は、コミュニティ参加者からすれば、トップの人への誹謗中傷に見えるだろう。やりがい搾取と相互監視というのは、単なるあなたの主観だ。

名誉毀損で訴訟されたら、公益性を盾に裁判で闘うことはできる。だが、誹謗中傷はダサいという空気の中なら、批判は間違いなく黙殺されるだろう。

この空気を逃れられるのは、研究者同士の学術的批判ぐらいのものである。しかもこれも実際には構造の枠内だ。学問は相互批判による発展を目的としている。学者は、要するに「学者=学説に対する批判を受け入れる人」という学者の間の人格評価を受けるために、批判を受け入れているに過ぎない。一歩アカデミアの外に出たら、批判合戦はダサいので、その内容はだれも聞いてくれない。人々は好きな「学者」の話だけを聞くだろう。その人がまともな学者かどうか、など誰も気にしない。

事実に基づかない批判だけを中傷と定義して禁止すればいいだろ?と安易に考えた方も、考え直して頂きたい。

事実など、誰にも明らかではない。

あなたが誰かを事実に基づいて批判している時、それは事実だと思っているに過ぎない。その証拠をいくら集めようが、推論だ。

実際、最近おきている「誹謗中傷事件」は、それを行った人々は、主観的には事実だと思っていることに基づいて批判を行っている。

そして、「誹謗中傷事件」に関して加害者を批判している方々も、彼らが「誹謗中傷」したのが事実だと思って批判しているに過ぎないのだ。

2.そして「人気」だけの島宇宙へ

結局、「誹謗中傷」はダサいという空気は、批判そのものの効力を無効化してしまう。

残るのは人気だけだ。

人気さえ抑えておけば、そのの全てのイニシアチブを取れる。何が事実で、何が価値判断で、どこまでが「ウチ」で、どこからが「ソト」なのかを決定できる。有料noteでも、動画チャンネルでも、政党でも、作り放題である。

あなたは、人気がある人、と言われて、自分の好きな人を思い浮かべるかもしれない。そしてその発言と権利を守りたくなってしまうかもしれない。それは危険だ。

あなたが最も嫌悪している、あなたが嫌いな人たちに人気がある人を思い浮かべて頂きたい。

その人が、単に個人嫌悪を超えて、行動が人として間違っているから批判したい、と思ってももはや無駄だ。

「誹謗中傷」はダサいという空気の元では、それは無条件で却下される。内容など誰も気にしない。聞いてくれるのはあなたに賛同してくれる人だけである。あとは人気だけの勝負だ。人気で負けたら終わりである。

政治だけは別だとか、労働問題だけはのぞく、などと言っても無駄だ。「誹謗中傷」はダサいという空気が一度形成されてしまったら、それは理屈ではないので、全ての問題を拘束し、人気だけの勝負になる。

あなたが特別の人気者で、それでも別にいいや、と思っているなら私に説得は不可能だ。

だがあなたがまったくの一般人なら、あなたが理不尽な目にあっても、法律以外何も助けてくれない社会を是認するということである。その法律も変更される。

これは未来予測ではない。今進行中の構造変化の言い換えの一つである。

やや抽象的すぎたかもしれない。次回からは、このテーマに関する昨今のトラブルについて扱いたい。

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