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くだらない「成功体験」の話

高校を卒業して、
実家に居ながら
なんとか最初に始めたアルバイトは
ガソリンスタンドのスタッフだった。

当時はまだ「ニート」という言葉はなく、
就職も進学もしない人は
「フリーアルバイター」の略、
「フリーター」と呼ばれていた時代。

「プータロー」って言葉は
ちょっと古いよね。
というくらいの時代だ。

当時、
ガソリンスタンドのバイトは
時給も高くて、仕事も楽。
そんなイメージで選んだんだと
記憶している。

でも、
僕が働き始めたスタンドは
かなり体育会系で
根性を必要とされる職場だったように
記憶している。

だから確か・・・
頑張らないと
時給は低かった。

暑い日に
日陰で待機していたら
18歳の僕は怒られた。

「セルフ給油」が普及する
10年くらい前の話だ。

********

そのスタンドは
その県だか地域だか、全国だかの
「サービスコンテスト」みたいなやつで
優秀な、優良店だったらしい。

中卒や、高校中退の若者を
立派な社会人にすることを
けっこう主張していた。

そして、
その業界の稼ぎ方を
初めて聞いたのだが、
「油屋は油を売ってなんぼ。
ガソリンを安くするのは客寄せで、
大した儲けにはならない。
オイル交換をしてもらって
初めて売り上げにつながるんだ」
と言っていた。

そして、
ガソリンを給油している間に
窓を拭き、ダッシュボードを拭く様に
おしぼりを渡し、
窓拭き1周した時に
運転席からおしぼりを受け取る。

「ドアの開閉部分に油挿しときますね」
と言って、
運転席を開けてCRCを挿す。

そして、
「ボンネットの点検は
よろしかったでしょうか?」
と言って、
だいたい
「いや、結構です」
と言って断られる。

********

ボンネットを開けるところまでいけば
あと一歩。
オイル交換の勧誘にまでたどり着ける。

スタッフルームには
模造紙にいろんなサービスの
成績表があった。

その中に
ボンネットを開けるところまで
たどり着けたランキングもあった。

ボンネットを開けさせてもらえたところまで
いったら、ステッカーを貼っていく。

これが僕だけ
ダントツに成績が良かった。

********

というのは、
僕にはまったく、
自動車の知識も興味もなかったので
ボンネットを開けさせてもらうことに
抵抗が無かったのだ。

多少、人生経験やキャリアのある人は
その後、
そこまで必要のない「オイル交換」を
勧誘されることや、
時間を取られることへの抵抗感を
知っているので、
開ける人も、開けられる人も
「面倒くさいな」
という認識があったのだろう。

18歳の若者の僕には
それが無かった。
教わった通りに、
ガソリンを給油して、
窓拭いて、
ドアに油挿して、
「ボンネット、点検させてもらいますね」
と言って、
「あ、はい」
と返事をもらって、
ボンネットを開ければいいだけの
話だった。

「権利」とか、「人権」とか、
「常識」とか知らない。
ただ、
こういう教わったことをすれば、
大人にとって必要と言われている
「お給料」というお金を受け取って、
必要なお金を払って、
大人は生きていくんだ。

そう真っ白な脳みそに
インプットされただけの話だ。

********

そして、
徐々にその「抵抗感」に
気づいた僕の成績は落ち、
数ヶ月で
そのバイトは辞めた。

********

30年ほどの月日が流れ、
僕らはどれだけ変わったのだろう?

ガソリンスタンドは
ほとんどが「セルフ」になり、
サービスの質より、
コストの方が重視され、
「今の流行りや常識」は
かつての流行りや常識となった。

ダントツで成績の良かった
「ボンネットを開けさせてもらう」
っていう評価は、
数少ない
僕の成功体験だ。

でも、
自分に興味の無いことで
評価され、褒められても、
全然嬉しくないし、
いつか、
自分の好きなことをして、
評価され、褒められるような
日が来ても、
僕は
素直に喜べるのかな?

とも想う。

「喜び」は
素直に大切と想っていることを
出来ている瞬間に
すでにやって来ている。

そんな「僕」で触れた世界が
受け入れてくれたら嬉しいし、
拒まれたら寂しく、悔しい。

そんな「僕」に
命をかけて生きていければ
たとえ世界が「僕」を拒んで、
道半ばで倒れてしまっても、
世界を愛して
死ねるんじゃないかと
想う。

大切なのは
「大切」に想っていることが
「出来ている状態」を目指す道のりを
歩けているのかどうか。

油屋の本質なんて
どうでもいいし、
商売の本質なんて
どうでもいいし、
迷惑かけるとか
賞賛されるかなんて
どうでもいいし、
オイル交換は何キロの走行距離が
適切かなんてどうでもいいし、
大切な適切量なんてのも
どうでもいい。

「どうでもいい」と
感じたのなら
そこから離れ、
「大切」と感じた
道を歩む。

「大切」が「どうでもいい」に
変化したなら、
次に見えた
「大切」な道を歩む。

成功体験は
失敗体験のようにも
成るし、
失って、
「大切」と感じる何かに
触れられることもある。

中世、日本にキリスト教を
伝えにやってきた宣教師たちは
「神の愛」に相当する日本語が
無くて困ったらしい。

試行錯誤を繰り返し、
宣教師たちは
「神の『愛』」を
「神の『大切』」と言って
伝えることにしたらしい。

「愛」って
よくわからなかったけど、
「大切」って想う気持ちのこと
だったんだなぁ・・・なんて、
最近は「愛」を日々、
感じています。

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