見出し画像

映画「君たちはどう生きるのか」を観た感想②

前半では、
どちらかというと、
もしかしたら
誰もが感じ得る感想かも、
ということを書いたのですが、
こちらの後半のnoteには、
とても個人的な、
「誰もこんな感想を
考えたりしないだろうな」
ってことを。

*************

僕はこの
「君たちはどう生きるのか」を観て、
とても
「表現」
というものを考えさせられた。

「表現」・・・
「表て」に「現されたもの」。

宮崎駿監督は
この作品で、何を
表に現したかったのか?

それが一言で言えるなら、
一言「生きろ!」とでも
言えばいい。

それだと違ってしまうから。

「死ね!」=「生きろ!」とか、
「生きろ!」=「死ね!」とか、
その、またいくつか論をこねれば
出来上がるものでもない。

そのくらいだったら
解説動画見て、観た氣になっていれば
いい。

*************

でも、
「表て」に「現して」いる。

それは、作品として
現出させるために
2時間に収めなければならないということ。

スクリーンの枠の中に
収めなければならないということ。

*************

どんなに「良い音」で表現されても、
スピーカーが再現できる枠内に、
「音」だって
収めなければならない。

*************

キャッチコピーを
宣伝に使わなかったにせよ、
いや、だからこそかな?
随所にセリフ「言葉」は
使われる。

表てに現すツールとして、
今時代、格差なく、
誰でも使えるものが
「言葉」だ。

「言葉」は必ず「表現」する。

表てに現せるために、
無限にそこに漠然と存在していた
「存在の粒子」を
「言葉」で限定し、
「それ」を「そこ」に
存在せしむる。

ひとこと「大丈夫」
と言ったら、
そこには「大丈夫」という
フォルダが表てに現れて、
ありとあらゆる要素の「大丈夫」が
そこに集約される。

もちろん「大丈夫」の中に
「大丈夫じゃない」要素も
含まれるだろう。

それは、
表てに現した人の素養だったり、
その「存在」を受け取った人の
素養だったりする。

*************

ピアノの音が、
そこここに、効果的に使われてるなぁ
と思った。

その1音1音が示す意図なんかも
受け止めてしまった。

ここで「ミ」を鳴らすか!

「ド」で収めず「ラ」にして
短調の重い感じで攻めるか!

などなど、
面白くて、

あ〜、ピアノって、
本当に音を限定しやすい楽器だな・・・

なんて想ったのでした。

*************

結果、
ピアノの音に象徴されるように、
表てに現しやすい手段は、
表てに現れない
「深淵な存在」を
無視することになるんだな。

なんて。

だからこそ、
その「深淵な存在」に敬意を払い、
その「深淵な存在」を
表現しようとする努力を
僕らは「芸術」と
呼ぶのだろうか?

・・と、
また「芸術」と名付けて、
限定して排除してしまいましたが、
キリがないのでこの「言葉綴り」の
先へ進みます。

*************

だから、
映画中の「人のセリフ」は
少なかった。

少ないくせに、
会話が完璧に「詩」で、
そこで会話が成り立つって
現実世界ではオカシイだろ!
ってセリフが
淡々と進んで、
無理矢理、
夢か現かの醒世は
展開していく。

心地よき・・・

*************

最近、僕は映画やドラマが
観れなくなっていた。

それは、
僕は僕の人生が楽しいから、
誰かの創った「表現」の
相手をするのが、
「時間の無駄」と
想わされることが
多くなったから。

素晴らしいのは
「自分の人生」であって、
どんなに優れていようが、
上手であろうが、
想いを込めようが、
真実であろうが、

僕自身の人生に
響かなければ、
なかなか不快な時間となる。

映像のクオリティとか
どうでもいいんです。

映像のクオリティが素晴らしいんじゃなくて、
そのクオリティの高い映像を観て、
僕は「森」へ行こうと想った。
「田」へ行こうと想った。
宇宙へ行こうと想った。
僕は「僕の人生」へ行こうと想った。

*************

数週間前、
小3の息子を連れて、
学校休んで、
人生初の「映画館で映画」を観た。
「マリオ」を観た。

息子はとても喜んでいた。

ラストシーン近くで
スターをゲットして、
クッパをやっつけるシーンで、
身を乗り出して、
満面の笑顔になった息子を見て、
僕は幸せだった。

彼も
「映画館を出た後のイオンて、
違う世界に見える」
と言って興奮していた。

そんな経験をするのは
とても貴重だと想う反面、
この「映画の黄金パターン」で
数々のプロパガンダを
浸透させられてきたんだな。と、
ある程度人生経験を積んだ僕は
考えてしまった。

*************

あ〜!
ここまで書いて、今、ようやく、
これ、まさに
「君たちはどう生きる?」
ってことじゃん!

と、腑に落ちてしまった。

全く、一番最初に打ち出した
唯一の言葉の表現
「君たちはどう生きる?」
が腑に落ちてなかった。

*************

僕は、映画館から出て、
「夏!」な外の風景に、
これをどうしてやりたいか?と
考えた。

「新しい曲ができるかもね」
と変わりばんこで観ることにしていた
妻に
そんな言葉の魔法をかけられていた。

僕はいつも、
そんな彼女の魔法に
痛みが走る。

曲が出来ても、
表現する場、
大きくその表現が展開していく
機会がなかなか持てていないことだ。

新しい曲なんて、
必要な時にできる。

必要のない新曲など
要らない。

今の境地はここです。
いいんだかわるいんだか・・

でも、
宮崎駿さんの新作は
作品の素晴らしさより、
僕の、僕ら一人ひとりの人生の
素晴らしさ、いや、
素晴らしくできる要素、
「一瞬に永遠が宿る」といことは
真実なんだよ!

とのメッセージを
下さったように、
僕は受け止めます。

ずっと表てに現す機会を見出せず、
作曲もせず、
言葉にも出さず、
ただただ、スマホのメモ帳に
埋もれていた物語を
表現する作業に
取りかかろうと想いました。

そんな想いと同時に、
無性に、
田んぼへ行って
草取りを
したくなりました。


「除草作業」とか言って、
本当は草を取るだけの作業じゃないんだよね。
「瞑想」だったり、「健康」だったり、
「空気の循環、「大地との調和」だったり。

なんていう、
言葉で意味づけして
表現すると、
無限が限定されて、
狭っ苦しくなっちゃうから。

「表現」なんてせん!

これこそが、
2時間に収められた「大作」に勝る
大いなる「現実」という
最高のギフトなんじゃないかとも
想うのでした。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。