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君たちはどう生きるかを幼少期からジブリ全作品を見てきた男が見た時の感想

すごい映画だった。

すごい映画としか言えないほどにすごい映画だった。

しかしそれでは我が人生を通して宮崎駿監督の長編アニメーション全作品を見てきた私としてはあまりにも不甲斐ないという気もするし、心の中に生じたものをどこかに吐き出さなければならない衝動に駆られたので、ここに現時点での感想を書き留めたい。

そんなわけでこれから「君たちはどう生きるか」という作品の解説・考察ではなく、幼少期からジブリを見てきた一人の男のごく主観的な感想を書いていく。というのも当作品は読み手の主観を浮き彫りにし、「君たちはどう生きるか」と真っ向から問うている作品だからだ。

今回初見なのであらすじや固有名詞など随所うろ覚えであり、時系列をなぞることなくテーマ別に書いていくので、本作を見ていない人は(あるいは見た人も)よく分からない内容となってはいるが、それでもネタバレ不要の方は戻るアイコンタップを推奨いたします。


これよりネタバレがはじまります。


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それでは参ります。


1_1.物語のための物語

本作は物語のための物語である。
なぜ物語が生まれ、物語は語り継がれるのか。物語の存在そのものを本作という物語で描いており、宮崎駿監督作品の中でも特にメタ的なテーマを持つ作品である。

本作において物語が生起する動機は欠損である。
戦争で失った母、新しい母との微妙な関係、一方通行の父、慣れない疎開生活、妖怪のような老婆達、煩い青鷺。不条理だらけの世界に眞人は自傷行為と嘘で対抗するが、やがて心の内側に翼を広げ、あちら側の世界へ没入し、欠損を補完して帰還する。欠損が物語への没入を誘い、欠損が物語を生む動機となっている。

1_2.あちら側とこちら側の世界の物語

当作品は「あちら側とこちら側の世界」を描いた物語である。あちら側とこちら側の世界の境界線が曖昧な中で物語が展開することで、あちら側とこちら側の世界が溶け合い、双方の世界が互いに影響を及ぼす合わせ鏡のような世界観を作り出している。これは意識と無意識の関係を表している。

こちら側とあちら側の世界が曖昧なのは、現実と空想が常に同居している少年時代ならではの主観をそのまま描いているからに他ならない。少年は現実からシームレスで空想世界に入り、いつもの帰り道もひとたびその辺の棒を握れば冒険物語の主人公になるものである。

こちら側の世界は眞人の意識下の世界であり、あちら側の世界は眞人の無意識下の世界である。そこには眞人が体験した記憶、読み聞きした物語、生のメカニズムや死後の世界と言った想像上のイメージも含まれる。それらが深層心理に反映され、カオスでユニークな少年の神話体系が形作られており、新しい物語があちら側の世界として生起する。

1_3.継承のための物語

当作品は継承のための物語である。眞人は母から本を贈られ、母と共通の物語に触れ、あちら側の世界で母と再開し、大叔父からあちら側の世界の継承を頼まれるがこれを断り、はからずも世界の欠片だけを持ち帰る。これは生命の継承であり、物語の継承である。

物語とは個人が体験した記憶と人類が残した過去の膨大な資料が共鳴した二次創作物である。物語を通して深層心理に潜った書き手と読み手が集合的無意識のどこかで繋がる。

例えば「ももたろう」を読んでいる時、古来よりももたろうを語り継いだ膨大な数の祖先と集合的無意識の何処かで繋がっていると感じるように、物語の中で我々は時空を超越する。

本作は宮崎駿監督の技が凝縮されており、それがそのまま物語となっている。眞人が本作で生命と物語を継承したように、我々鑑賞者も当作品を鑑賞したことで物語の欠片を継承することになる。

この物語は新たな物語を生起させる動機を鑑賞者に植え付ける物語でもある。

2_1.少年の主観を丁寧に描く

作品のテーマはメタ的な視点だが、演出方法は眞人の主観を丁寧に描くことで絶妙なバランスを醸し出している。

空襲の恐怖、徹底してモブとして描かれるモブ。眞人の頬に添えられた夏子の大きな手、貧しく見窄らしい人力車の漕ぎ手と裕福で美しい夏子との対比、不吉な青鷺、殆ど妖怪のような老婆等、これらは少年眞人の主観そのままにデフォルメされている。

こちら側の世界で起こる不思議な出来事も、あちら側の世界で起こる物語も、少年の心象世界であり、物語だからこそリアルなのである。

宮崎駿監督がこれまで以上に少年の主観を描く挑戦がなされており、見事に、むしろ痛々しいほどに描かれているように思う。

夏子に一切返事をしない少年。かと思いきや翌日には敬語で接しはじめる少年。自分を傷つけ口を学校をサボる少年。父親には何も言わない少年。弓を自作し武装する少年。男子とは多かれ少なかれその道を一度は辿るものだが、これを80を超えた巨匠が描くのだから驚嘆である。まさに時空を超越している。

2_2.アニメーションで「アニマ」を描く

アニマはアニメーションの語源である。
ラテン語で霊魂を表し、ユング心理学におけるアニマは男性の無意識下に内在する女性像である。

眞人のアニマは本作に登場するキャラクターを投影して描かれている。

母=ヒサコ、ナツコ…欠損、取り戻したい、罪悪感、
姉=ヒミ、若いトキコ…信頼、守られたい
妹=ナツコ…奔放、守りたい
祖母=老婆達、トキコ…甘え、世話になっている
ヒロイン=ヒミ、ナツコ…異性への憧れ、近づきたい

このようにキャラクターと属性が縦横無尽に交錯しているのだが、眞人のアニマは「母さん!」の一点に集約され、母の喪失と補完が本作のテーマの一つとなっている。

ヒミはヒミコ(卑弥呼は魏人側の表記であり、邪馬台国側の意味合いとしては火巫女or日巫女=ヒミコの説)であり、ヒサコの焼死によりヒミは火の巫女として転生している。また母の焼死は古事記のイザナミがヒノカグツチを産んで焼死するイメージと合致し、母のイメージが日本の歴史と神話の大いなる母と合体している。グレートマザーである。少年の母は少年の神話体系において神格化されるほどの影響を持つ。

キャラクターのイメージの合一は神話や宗教においてもしばしば発生する。例えば七福神の大黒天は元々はインドのシヴァ神が仏教伝来の際に日本に輸入されたものだが、やがて日本神話の大国主と合体し大袋を背負い打出の小槌を持つ現在の大黒様のイメージが作られた。(大国主自体も多数の神の集合体の指摘もある)

ナツコの産屋のシーンは天の岩戸に引きこもったアマテラスを思わせる。紙の結界が貼られ、石が騒いでいる。眞人が「母さん!」と叫ぶがそれを「あんたなんか大嫌い!」と拒絶するナツコは黄泉平坂を駆け上がるイザナミの様でもある。ヒサコにもナツコにもグレートマザーの属性が付与されているのである。グレートマザーは慈愛と破壊の二面性を持つ。

本作の設定のエッジが効いている点は、父が姉妹と結婚した二等辺三角関係的な構図を眞人にもあちら側の世界で継承させている点である。
眞人は母であり夏子の姉であるヒミと協力して夏子を助ける。途中からはヒミが囚われヒミを助ける。ヒロインが姉妹であり母という混み合った構図が眞人の非常に複雑な心境を物語っているのだ。このような現実から目を背けるために眞人はあちら側の世界への扉を開いたのかも知れない。

2_3.物語によって現実を受け入れる

眞人はあちら側の世界でヒミ(母)と出会うが、ヒミは眞人と共に夏子を助け、眞人を産むために別の時間軸のこちら側の世界へ戻ることで眞人は母の死の必然性を受け入れる。

眞人はあちら側の世界で死者の門に近づき、ペリカンに襲われるところを若いトキコに助けられる。あちら側のトキコは姉御肌で武芸に長け荒波も乗り越える。塔まで付いてきてくれたトキコをよほど頼もしく思っていたのだろう。トキコの家のテーブルの下で老婆の人形に囲まれた結界の中で寝る。老婆達は眞人を静かに見守ってくれていたことを悟る。

ワラワラは月夜の晩に空高く登り子供としてこちら側で生を受けるが、ペリカンが邪魔をする。(ペリカンはコウノトリの対称の存在と考える)それを母であるヒミが火の魔法で助けることによって眞人が生まれたことを肯定し、夏子の子(眞人の異母兄弟)が生まれることを肯定している。ヒミがワラワラをも焼き払うのはヒミには空襲で死んだ母であるイメージが眞人に内在しているからだ。母が生と死の両方を司っているのである。これもまた先述したイザナミの属性に対応する。

眞人はヒミの助けを借りて産屋まで辿りつくが、夏子に「あんたなんか大嫌いだ!」と罵られる。これは眞人が夏子に抱く感情の裏返しである。眞人は死んだ母を差し置いて新しい母と暮らすことに罪悪感を覚え、父の子を身籠る夏子に対し異性への憧れ(エディプス・コンプレックス)と嫌悪感が絡まった複雑な感情を抱いている。
そのため眞人は夏子もまた眞人を嫌悪しているのではないかと疑っており、罵られることとなる。
産屋に入るという禁忌を犯し夏子を「母さん!」と呼ぶのは眞人がコンプレックスの蓋を開き、夏子を新しい母として受け入れるメタファーである。ヒミの助けを借りることで母の死と新しい母を受け入れる行程がグラデーションで描かれている。

青鷺は眞人と対称的なキャラクターであり、対称的な刈り上げがそれを表している。青鷺は煩く、狡く、傲慢で内側が醜い。つまり眞人のシャドウである。眞人はシャドウである青鷺に導かれてあちら側への世界へダイブする。あちら側の世界の悪役が揃って鳥類なのは青鷺の影響であり、ペリカンはコウノトリの対になる存在であり、塔に住んでいたセキセイインコの影響である。カオスなあちら側の世界に統一感を持たせる手法としては効果的のように思う。

眞人はこちら側の世界で敵対していた青鷺とあちら側の世界で友達になり、こちら側の世界でも友達を作る決意をする。眞人は自身のシャドウの存在を受け入れる。

2_4.神がかり的な属性があちら側への鍵となる

東京大空襲による母の焼死。母の病院が焼かれ、遺体は確認できないものの真人のイメージの中で死んでいく。この大空襲の描写はPTSDを思わせる心象的な描き方が成されており、真人の持つ属性の伏線となっている。

真人は自傷行為によって学校をサボる。この傷により更なる精神世界へ身を投じて行く。青鷺が眞人を誘い、沼の魚が不気味に歌う。これは不思議なものが見える統合失調症の病状の表現のようでもある。

真人の母方の大叔父は頭が良すぎて塔に引きこもり死んだことを聞く。やがてあちら側の世界で真人は母と再開し、大叔父と出会い、大叔父の世界の欠片を持ち帰る。

大叔父は自殺したことから何らかの精神疾患を患っていたと考えられ、おそらく母と眞人にもその属性が受け継がれている。これは精神疾患、神がかり的な要素があちら側への鍵となることを示唆している。こちら側の世界で大叔父は死を選択して、あちら側の世界で眞人は生きる選択をする。人間の想像力の作用と反作用、物語の必要性と危険性を描いているように思われる。

3_1.宮崎駿がパンツを脱いだ作品

庵野秀明監督が、「宮さんはパンツを脱いでいない。」と言ったことがある。逆に言えば庵野秀明は毎度パンツを脱いでいるということになるのだが、それはさておきこの比喩は「作者の本性を描け」という意味だろう。

宮崎駿は今まで「表面はエンターテインメントだが裏面でパンツがちらりと見える」手法を多く取ってきた。ポニョ以降は特にパンツの面積が徐々に増えたが、当作品は宮崎駿が「表面からしっかりとパンツを脱いでおり、裏面をエンターテインメントが下支えする」作品のようだった。あちら側とこちら側が入れ替わっているのである。

賛否両論意見が分かれる作品のようだが、視聴者のスタンスによって評価は異なるだろう。確かにトトロやラピュタや耳すまを見にきた人は面食らうかもしれない。しかし宮崎駿作品を見てきた私としては今までの作品のモティーフもしっかり踏襲しつつも大きく飛躍し、新たな世界へ壁抜けした作品になっているように思える。

3_2.過去のジブリ作品のオマージュ

作品の大まかな構成としては「千と千尋の神隠し」や「となりのトトロ」と言った「和製不思議の国のアリス」であるが、主人公が少年である点は「天空の城ラピュタ」や「崖の上のポニョ」の要素を感じさせる。
主人公のシャドウに焦点が当てられている点は宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」のテーマにも通ずるし、時間を超越するアイデアは「ハウルの動く城」でも用いられている。

個別に見ていくと、階段を駆け降りるシーンの背景は「千と千尋」のハクと小道を歩く時の技法、眞人が泣きながらページをめくるシーンは「耳をすませば」の雫、追跡する矢は「もののけ姫」のアシタカ、インコの腹の模様はどう見てもトトロ、ワラワラはぷにぷにした木霊、ペリカンのじいちゃんは「もののけ姫」のおっことぬし、産屋の紙の呪術はハクがかけられた術。

などなど過去の作品が充実しているのでより細部の類似点を上げようとするならキリがないのだろうが、ファンとしてはこれらを見つけていく(あるいはこじつけていく)のも楽しみ方の一つだろう。

3_3.村上春樹の新作「街とその不確かな壁」と呼応するかのような作品

宮崎駿監督の新作「君たちはどう生きるか」と村上春樹の新作「街とその不確かな壁」が呼応しているように思えたのは私だけだろうか。

物語のための物語、欠損を埋めるための物語、あちら側の世界とこちら側の世界の物語、瑞々しい少年の心象風景を描写し、あちら側の世界で時間を超越する表現。セルフオマージュのオンパレード。少なからず類似したテーマを持つように思えてならない。(街とその不確かな壁については改めて書きたいと思う。)

好景気の日本で大きく飛躍し、世界で最も有名な日本人クリエイターの二人が今まさにキャリアの到達点とも言える作品で呼応しているのは偶然などではなく、頂点に上り詰めた二人が物語を書く行程で深層心理へダイブし「超集合的無意識」へのトンネルが交差した結果、あちら側から持ち帰った物語の欠片に共通点があるように見えたのは単に私が両者の作品をほぼ全作品見てきた一人の男であるからに他ならない。

両者は恐らくこれが最後の長編になるかも知れないという思い、残された時間が迫ってきているという思い、自分が行ってきた仕事の技術を誰かに渡したいという思いが重なって今回の類似性が生まれたのではないかと考える。

また、少年の心を神話体系として描くモティーフは、庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」、村上春樹の長編作品「海辺のカフカ」等を彷彿とさせる。物語が様々な存在の説明を果たす役割をしているのは神話の時代から変わっていない。光と闇、太陽と月、生と死。人間の理解の範疇を超えた存在は物語によって補完される。

3_4.実際の現実の出来事との関係性

眞人の根底には第二次世界大戦の戦争体験があり、母が炎の中で死んでいくのに対し「母さん!」と叫ぶのは神風特攻隊の母子の立場が入れ替わったような描写がなされている。これは眞人が子供のため出兵できなかったコンプレックス、そのために母を死なせてしまったという罪悪感を巧みに描いている。

眞人の父から届くタバコや缶詰に群がる老婆達。これは今後我々に迫り来る日本のインフレや少子高齢化を暗示している。

眞人が母から送られた「君たちはどう生きるか」の本を見つける。実際に刊行された本が当作品に影響を与えている。

あちら側の世界のインコ帝国はなぜインコだったのか。単に塔にセキセイインコが住み着いていただけだったのか。人食いや人身御供の風習があるインカ帝国のダジャレなのか、ナウシカの王蟲(オウム)に対してインコなのか、はたまた麻原彰晃が作った世界を崇拝するオウム真理教ではなく大叔父が作った世界を崇拝するインコ真理教として描いたのか。あるいは人の言葉をリツイートするばかりで主体性を欠き、戦時中の軍国主義同様の全体主義的な振る舞いをする衆愚な国民としてインコという暗喩を用いたのか。想像力を掻き立てるところではあるが、限りなくコミカルに描かれている点を鑑みるに、何かしら風刺的なメッセージを内包しているように感じざるを得ない。

君たちはどう生きるのか

眞人は答えを見出してこちら側の世界へ帰還する。ではこの物語の欠片を受け取った私はどう生きるのか。不条理だらけのこちら側の世界を。欠損は物語が埋めてくれる。人間は今までずっとそうやってきた。想像力は人間に与えられた翼だ。ただしちゃんと戻ってこい。そしてこちら側の世界で行動を起こし、世界に何かしらの影響を与える。それが私の物語だ。

以上、作品についてのおおよその感想を書いてみたが、改めて思うのは凄過ぎてなんか悔しくなるほどだった。私が悔しがる分際でないことは百も承知なのだが、それでもなんだか悔しくなるほどにくらってしまった。人間にこれほど凄いものが作れるのかと打ちひしがれた。なんなら主題歌「地球儀」を製作した米津玄師にもめちゃくちゃ嫉妬した。

当作品を見て一週間が経つが、未だくらいっぱなしである。これを多感な少年時代に見たら一体どうなってしまうんだろう。試しに子供にも見せてみよう。

というわけで、いい大人の深層心理も洗いざらいぶちまけさせてくれるような作品だった。歴史的に見ても一つの転換点のような作品だったのではないか。

自慢では無いが私は宮崎駿監督作品の「もののけ姫」「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」「カリオストロの城」、この辺りは流し見も含めると冗談抜きで100回は見ている。当作品「君たちはどう生きるか」も私がどう生きるのか試行錯誤しているうちに100回は見ることになりそうだ。





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