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プロフィール

自分はどんな人で、
どんな経験を積んできていて、
今回、どんなものを
提供させていただきます。

それをはっきりさせて
プレゼンテーション、
自己紹介、
イベント等の告知、周知、
宣伝は始まる。

そして
どんな顧客を狙った
サービスを提供するのか。
顧客はどんなサービスを
求めているのか。

*******

この当たり前の作業に
すごく抵抗がある。

自己紹介をして
「自分はどんな人です」
と伝えると、
「へぇ、そんな人なんだ。
ということは、
こんな価値を提供してくれるのかな・・・」

そうやって
その人を知るようになる。

「言葉」というパッケージを使って
僕らはコミュニケーションするのだから
それは当たり前のことだ。

でも、
そこで
創りたい世界の意図が
大きくズレてしまうような
感じに襲われる。

*******

自分はミュージシャンで
こんなキャリアを持っています。
だから自分にはこんな価値があります。

「自分は」じゃなくて「この方は」
という他者の紹介でも同じ。

自慢しても、推薦してもはばからない
キャリアを紹介していく。

テレビに出たこと、
どんな学校を出たかってこと、
どんな賞を受賞しているかってこと。

僕にはそれが全くない。

それでも何かを書かなくてはならない。
言わなくては始まらない。
何を言おう?
何を言おう・・・

全ての誇張したキャリア、
経験が黒歴史と感じる。

いや、経験自体は良かったんだけど、
それを主張しちゃったことがね・・・。

BSのテレビに出演したこと。
震災の時、積極的にボランティア参加したこと。
ニート引きこもりの
自立就労支援で働いたこと。
旅人。
田舎に越してDIYな暮らしをしたこと。
子育ての経験、介護の経験・・・。

(笑)ミュージシャンの主張じゃないな。

唯一、お恥ずかしながら、
ずっと積んできたキャリアは
駅前の路上へ行って、
タイコやウクレレを奏で
唄ってきたこと。

*******

有名であろうミュージシャンとの
共演の経験を主張してしまったら
自己嫌悪の最たるもの。

これが一番わかりやすく
全ての感覚を象徴してるかな・・。

誰かの、何か、
自分以外の何かに
あやかって
自分を大きく見せる自己紹介を
いつまでやらなくては
ならないんだろう?

何か、自分に訪れた変化に
ただ興奮していただけだ。

興奮して、
そのおかげでモチベーションを
保ててたのはあるけど、
やたら写真を撮って
SNSにリア充投稿していた頃より、
暮らしが身に付いた今の方が
よっぽどオススメなんだけどな(笑)

*********

というわけで
後々恥ずかしくなるであろう
主張は避けるようにしている。

でもさらに
最低限の主張すらも
億劫になってきてしまっている。

「ウクレレを弾いて唄っています」
は想像つくでしょ?

「タイコ叩いて唄っています」は
ちょっと想像つかないのが
一般的なんじゃないかな?

僕にとって
同じ地平にあるものが
全く別のキャラクター像を
創り上げてしまうであろう想像。

*******

友人知人に
華やかなキャリアを持つ人々がいる。

華やかなプロフィールを書いた
コンサートのポスターが届く。

これは嫉妬なのだろうか?

僕にとって
この華やかに思わせられるであろうと
思われる
キャリアが羨ましいのだろうか?

悔しくて、嫉妬してしまうから
足を運ばないのであろうか?

自分とは
関係ないジャンルで想像してみる。

「陶芸作家のすごい人が
うちの近くに公演に来るらしい」
・・・まぁなんでもいいや。

「へ〜 どんな人?」

「〇〇なキャリアがあって、
〇〇と友達で、
〇〇に出演してて、
フォロワーが○万人いるんだった」

「へ〜 じゃ、行ってみるか」

*******

・・・でもさ、
それしないと、
何を知らすことも出来ないんだよね。

今はちょっと興味湧いたら
youtubeとかで検索してみるといいけど。

そして、
それでその人の魅力がyoutube
判るのかと言ったら
そんなことないんだよね。

そのLIVEに足を運ぶまで
その公演が素晴らしい経験に
なるかどうかなんて
わからない。

そして、
その旅路と公演を
「素晴らしいもの」とするのは
誰だ?

と言ったら、
その公演に興味を持って、
行くと決めて、
出費して、
足を運んだ
お客さん自身なんだよね。

そんなお客さん視点に立った僕は
別に
そこに行かなきゃ意味がない
というわけでもないんだよね。

「僕」はただ、
真っ直ぐ歩いていればいい。
と思う。

だから言い換えてみれば
youtubeでも充分、
そこから何かのイマジネーションが
湧いたのなら
その気持ちはその人のものだ。

何かに消費して、(投資して?)
その教えに従わなくても
見上げれば空は在って、
全てを感じるがままの「自分」がいて、
それで充分、じゃない?

そんな氣付きを
届けたくて、
音楽をしています。

そんな「祈り」なのかな?

自分自身への癒し
でもあると思う。

そして
「渇き」でもある。

********

プロフィールに
大層なことを書いても、
そのプロフィールに
あやかりたい人が集まって来るのでは、
届けたい人には届かない。

(僕の場合は、あやかりたいと
思われるであろうキャリアは無いんだけどね。
むしろダサいキャリアを誇張して書いて、
集客を逃す。というスパイラル)

アメリカへ行ったキャリアと、
1年ぶりに玄関の扉を開けて
外に出られたキャリアの
何が違う?

「歓び」はどこにある?

僕は玄関のドアを開けた歓びを描きたい。
玄関のドアを閉じた決意と勇気と
儚さを描きたい。

アメリカが優位で、
東京が優位で、
外出が優位で
引きこもりが最低だとか。

そんな価値観は
普遍のものではないよ。

そう設定しているのは
僕ら自身、
僕自身なんだ。

好きに設定すればいい。

自由に設定すればいい。

そこから世界が、
社会が変わっていく。

実際に昔のアメリカ、東京の権威には
世の中的に翳りを感じる。
現実は、
僕の暮らしが変わったからなのか。
僕の感じていた魅力が失せたのか、
疎外されるゲームを降りたのか、
これは僕の唯の主観なのか?
僕以外にも多くの人が
感じていることなのか、
本当のことはわからない。

只中から出れない「僕」ではわからない。

「常識」とは裏腹に
自分で感じている感じが
少し違う。
違和感がある。

そこが「流れ」だ!

高気圧から低気圧の方へ
流れ込む自然のように。

僕らの集合意識も流れ、
世間を創っている。

「流れ眺め歩くさだめ」と、
風の音楽家で唄っています。

集客の努力をしなくちゃいけないのに
「ぜひ皆さん、お誘い合わせの上ご来場ください。
きっと素晴らしい経験をお届けします」
なんて、
キャッチーのための
コピーでは
うまく伝えられない。

だから、僕はただ
地道に最善を尽くそうと
思っています。

大きな舞台でも、
小さな日常でも、
唄って、現れる。
世界が「素晴らしく」現れる。

時には「最低」な姿を描くことを
嗜好してしまうことも多いです。

それもやっぱり
拭いきれない「豊かさ」。

そんな詩を、言葉を、
選んで唄っています。

そんな人であることを
日々願い、唄い、創っている。

そんな人です。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。