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成功とは・・・

僕は今、
自分で創った詩を唄って、
生きています。

先日、久しぶりに会った、
多分、5〜6年ぶりの友達に
「サカナくんの歌聴くと
泣いちゃうんだよ〜」
なんて言ってくれたりして、
おそらく、100人、200人くらいは
「平魚泳っていいよね」
と思ってくれている人は
いると思います。

facebookに1800人も友達いるし、
「友達になってください。
好きになってください」
とお願いしたわけじゃないので、
好い印象で
僕の音楽を覚えている方は
やっぱり遠慮しても
200人くらいはいると思います。

その中で、
僕の活動を気にかけてくれているのは・・・

10人くらいはいるのかな・・・
いるといいな。

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で、売れるためにどうすればいいのか。

それは
何か売るものを作ることと、
それを売ろうと試みて、
トライ&エラーを繰り返しながら
「売れる」結果を出すこと。

売れるための努力をしなければ、
売れないでしょう。

CDで売れなくなった今、
何を売ればいいのかわからなくなってる。
しかし、
「何か売れるもの」を探して生きている
わけじゃないことが
わかってきた。

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「こうすれば売れるだろう」
と予測して試みた方針が
売れなかったらどうしよう・・・。

やりたいことじゃないけど
売れるためにがんばってやった。

より多くの人に
喜んでもらえるだろうと思って
やった。

そのために
時間と労力を注いだ。
人生を費やした。

誰も喜ばなかったし、
自分自身さえも
楽しくなかった。

誰かのために創った作品が、
その「誰か」に喜んでもらえなかったら、
誰がその作品を愛するのだろう?

当事者不在のまま、
作品は宙に浮き、
そこへ費やした労力は
無かったことになる。

********

何かテーマを持ちかけられて
作曲した曲が
人生で何度かあった。

そういうインスピレーションは
嬉しい。有り難い。

普段使わない言葉を使って、
珍しい雰囲気の曲が出来た。

届けた相手には
伝わったり、伝わらなかったり。

しかし
そんな「仕事の関係」が終われば、
その曲の「当事者」は
どこにもいなくなり、
誰からも歌われなくなる。

*********

こんな生き方が
あまりにもデフォルトで、
僕にはみんなが変態に見えるので、
みんなから変態に思われそうだけど、

なんで生きてんの?
と思うわけだ。

「やりたいことじゃないけど、
やりたいことわかんないし、
とりあえず、売れそうな
(これをみんなは「安定した生活」とも呼ぶ)
仕事に就けるように
進学しよう。
就職しよう・・・。」

********

自分の人生に戻します。

「音楽」をする人として、
「芸能界」と「デビュー」とか
そういう運と実力の
大きな世界で考えないなら、

冷静に、現実的に、
「詩」より「音」の方が
売れると思った。

「歌」ってのは
注目を集め、カリスマになってナンボだ。

そこを引き受ける気概、覚悟がないと、
いや、あったとしても
人を惹きつけるカリスマがないと、
自己満足。
小さな宇宙で終わってしまう。

言葉ではっきりと分かってしまう「歌詞」は、
人の印象の「好き」「嫌い」で判断される。
歌詞がなければ、とりあえず
音が和を為していれば、
人は自由な印象で受け入れることができる。
受け流すこともできる。

BGMとしての汎用性も高い。

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僕は詩を歌うアーティストより
ソロウクレレプレイヤーとして
もう少し努力を費やして、
発信もしていった方が
売れる可能性は広い。
と今でも考えている。

でもやらない。
その努力をしていない。

オリジナル曲よりカバー曲がいい。
たくさんの「みんなが知ってるヒット曲」を
覚え、分析して、
ソロウクレレでアレンジする。

それでそのヒット曲にあやかって、
認知度を広げ、
「教える人」になると、
けっこう金銭頂きやすいんじゃない?

・・・まぁ、そう考えて、
じっさい、そういうこともしてきた。
今もしている。

そして、
こっち方面の集客するための努力を
もう少し頑張れば、
もっと先生として活躍できるんじゃないか?
と、思えるくらい
「仕事」らしいものになった。

でも、
僕が怠け者だからかな?

いや、
「もっとこうした方がいいんじゃないか?」
という道筋は見えているんだけど、
そっちに行けば行くほど、
僕自身が行こうとしていた道から
離れてしまう。

もし仕事が忙しくなって、
生きている時間の大半を
求められる姿でいる「仕事」に使ったら
本来、歌いたかった「詩」は
いつ歌えばよくなるんだろう?

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「スキマ時間を利用して」とか
「プライベートな時間を確保する」とか
巷では言うけど、

そうして「求められる姿」でいる時間へ
「求める自分の姿」を差し出す努力を
なぜそんなにしなくてはならないのか?

お金のため?

だとしたら、
お金を得るほどに
人生を不確かな「社会」に差し出し
人生が貧しくなってしまうように
最近の僕は感じてしまうのです。

そんなお金の在り方ってどうなの?

と、最近は考え始めました。

親の貯蓄で
何とかやっていけてるうちに、
社会、世の中、お金の在り方、
僕らの意識を変えていかなきゃなぁ・・・

そう思っています。

求める社会の姿とは
誰が求める社会の姿なのか。

僕が求める社会の姿は、
僕が心地好く、
望みを叶えて生きれる社会。

そんな「僕ら」で生きれる社会。

そんな僕は日々、
空を見上げ、
心地好くなって、
なりきれない「不快」を眺め、
本当は何を望んでいるのか。

日々、考え、感じているのです。

つづく

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。