見出し画像

望んだ「僕」でいられる場所で

どこにでも住めるとしたら、
どこに住んで、
どんな暮らしをしているだろう?

ふと、そんな言葉に
いつもの
がんじがらめになっている
視点を変えてみたら、
そんな
夢を叶えた暮らしをしている
とも
想える。

*************

「希望の大学はどこですか?」
「どんな仕事をしていきたいですか?」
「どこへ就職しますか?」

《職業選択の自由》を
日本国は憲法で人権を尊重しながら
「どんな肩書きに属する
《仕事》というものを選ぶのか、
いくつか選択肢を与えるから
選びなさい」

と、囲い込む姿勢を崩さない(崩せない)
「学校」という枠組みの中での会話を
無視して、ドロップアウト。
高校3年生の11月に
津田沼駅と千葉駅の路上で
ギターを弾いて歌い始めた。

もちろん
当時は、こんな言語化なんか出来てなくて、
「へ〜音楽やりたいんだ?
じゃ、音楽系の専門学校とかいいんじゃない?」
なんていう親切なアドバイスに
違和感を抱えたまま、
ドロップアウトした選択肢が
「路上で歌う」
ということだった。

それなりの進学校であった。

肩書きを始めて失った僕は
たぶん、
あの4月〜8月の
モラトリアム期間は
人生で一番、病みに近い闇だった。

*************

これじゃだめだ。
家を出よう。

千葉の実家にはなかなか帰れない街、
横浜駅の近くに
風呂無しアパート(家賃3万円)を
借りて、
バイトと、
路上で日々、
ギターを弾いて暮らした。

*************

同世代らしい「ゆず」なる人たちが
売れて、
路上にギターとタンバリンを持つ
2人組と、
マネージャーらしき
チラシを配る人が増えて、
あちこちで人混みをつくっていた。

「ここで歌うには
誰に相談すればいいんですかね?」
と、10代の若者に
相談されるようになっていた。

同世代の
路上でダベっているような
仲間っぽい友達は
季節ごとに入れ替わってゆく。

カップルとなって、
生活を築いていったり、
トラブルを起こして
姿を消したり。

僕は22.3歳で、
このまま横浜の路上に居座れば
お山の大将に
なれるような氣がした。

全く望ましくなかったので
東京に引っ越すことにした。

東京だったら
まだまだ
ダメな大人も多くて
僕がまだ若くいられるかもしれない。

そんなニュアンスの理由が大きかった。

そして、
高円寺、中央線界隈は
有名無名ごちゃごちゃと
アートに身を捧げた人たちが
多くて楽しかった。

でも、
ライブ→打ち上げ→バイト
のルーティーンに飽きてきた。

ずっと僕にあったジレンマは
「音楽が身近な環境での暮らしがしたい
わけじゃない。
《音楽》がしたいんだ!」

『だから、あなたの言う《音楽》って何?』

こんな質問が
常に彼(か)の身から聞こえてきた。

*************

完璧な「音」になりたい!
それには僕の音楽は
聴くことも奏でることも
未熟過ぎた。

「音楽は楽譜ではない」
などと言いながらも、
楽譜くらい読めて、
この音が何なのか
理解して鳴らそうよ。

そんな風にも想っていた。

*************

同時に、
東京で暮らす
限界の鐘が鳴っていた。

カネが無いと、
路上に腰を下ろすことも
はばかられる時代になってきた。

ベンチには凸凹が設置され、
路上の脇には
トゲトゲした寝られない
「アート」なるものが設置された。

ナイフを振り回す人が現れた。
僕は職務質問され、
持ち歩いていた「十徳ナイフ」を理由に
警察に連れて行かれた。

井の頭公園では
近隣から苦情が入り
警察が来て、タイコが叩けなくなった。

フリーマーケットも、
路上演奏も、
許可を得ないと、
同業者から
責められるようになった。

もう少し広い代々木公園でも
警備員に
「練習はいいけど、人に聴かすように
演奏してはいけない」などと、
わけのわからない人権無視のルールを
口頭で言われた。

*************

僕は、
東京のアパートを引き払って
自転車で旅をすることにした。

ここらへんの(東京→旅)暮らしの
移行期間に、
初めて熊本へ飛行機で行った経験があった。

遠くまで来たはずなのに
1〜2時間、飛行機に乗っているだけで
着けるんだ。

遠くへ来た実感が湧かなかった。
遠くへ来た実感が欲しかった。
自分の感覚で
「日本」という場所は
どれくらい狭くて、
どれくらい広いのか。

実感がほしかった。

*************

様々な出会いと別れを繰り返し、
東京→鹿児島、そして屋久島。
初夏から初冬まで、
半年ほどで、千葉の実家へ帰ってきた。

自分自身との
「出逢い」と「別れ」が
直接、いろんな出逢いと別れに
反映されていた。

*************

旅を終えた後の
ニート暮らし以降も

ほんとうに
いろいろあった。

大きな放火事件の犯人となる人と
前日に会っていて、
重要参考人として、
熊本から大阪へ呼び出され、
いただいた浮いた「交通費」で
沖縄まで行って、
ゲストハウスのトイレに財布置き忘れて
まるまるお札だけ2万円スられたり。

*************

大阪の路上でタイコを叩いて
歌っていたら、
珍しく人混みが出来て、
自分も、人混みも、
空を行く雲の流れも
俯瞰できているような
不思議なタイミングで
人混みが創った人混みがはけた後も、
残って声をかけてくれた
オーストラリア人のカップルから
「君のCDを作りたい」と
後にメールが来て、
京都の路上で、
当時はまだそんな手軽じゃなかったので
バッテリー消耗の早い
ラップトップのパソコンと
コンデンサマイクを持参してくれ、
レコーディングして、CDが出来て、
出会いが嬉しくて、
オーストラリアまで、
もちろんお金は僕の持ち出しで
行って、
路上や、いくつかのステージ、ラジオ、
楽しんできた。

話せなかった英語も、
2週間で、
日本に帰ると
友人の台湾人から
「英語が通じるようになってる」
とびっくりされた。

*************

オーストラリアの彼に
カタコトの英語で
一生懸命こう伝えたのを
憶えている。

「誰もが、どこにでも選んで
好きな場所で生きれるようになれると
いいな」

*************

今、オーストラリアの二人は
結婚し、子ども生んで、
彼のルーツである
香港の離島に住んでいる。

あんなことを言った僕は、
ずっと金銭的な制限を感じながら、
なかなか会いに行けないでいる。

*************

そんな「ワールドワイド」に
片足を踏み込んだ僕は、
今、大分の田舎の古民家で
奥さんと8歳、5歳の子どもと、
千葉からギリギリで連れて来れた
認知症となった両親を
近くの施設に預けながら、
いろんなものを作り、
工夫して暮らしている。


生活経費の多くは、
親の貯金だ。

なかなか
音楽でお金を得ることは
ままならず、
どっちみちずっと
親の援助を頼ってきていた。

コロナ、親の老い、
放射能、消費税、、そしてインボイスなど。

ままならない
いくつもの不確かな現実を前に、
「お金を稼げない」という
気後れが
吹き飛んでしまった。

ずっと無理ゲーな社会を生きて、
そこに従って、
なんとか維持しようとする
「立場」も
僕には無い。

「プロのミュージシャンです」
と主張して、
ブランディングで見栄を張るのも
惨めだし、
伝えたい音楽の「本意」ではない。

ウクレレが弾ける、
タイコが上手、
ホーミーといって、
ふたつの声を同時に出すことができる。
などと言って、
芸と技で身を売っているわけではない。

「音」と「詩」を
感じよう。
感じてもらおう。

そして、
「詩」と「音」に
導かれよう。

*************

「どんなところに住みたいか?」

僕が「望んだ僕」で
いられる場所に住んでいたい。

田舎は好いよ。
野菜、お米つくって、
道具や住処を工夫して。

これが「命」。
長年の月日を暮らしてきた
本当の姿、なのかな?
と垣間見れる瞬間もある。

でも、
歌い、届けようとする
姿勢を創れる「街」がない。
人がいない。

でも、
「街」にそれがあったのか?

どちらかというと、
僕は「街」から
追い出されたような
感じがしている。

有料会員限定、みたいな。

今、住んでいる古民家は
借家だが、
長年空き家になっていた家を
修復して住んでいる。

修繕費は持ち出しだったが、
街に住む大家さんが、
「住んでくれるだけで有り難い」と
言っていただけて、
家賃なる契約は交わしていない。

「タダより怖いものはないよ」と
たまに誰かに脅されるが、
逆に、
有料か無料かってのは
人類僕らの「合意形成」があって
初めて成り立つものだと
真意を知った。

大切なものに
高い値段をつける?

大切なものだから
値段を抑える?

無ければならないものに
金銭価値をつけるか、
無くてはならないものだから、
無料で
広くみんなに行き渡らせるか。

東日本大震災、
福島原発、
コロナを見てきた。

情報より何より
肌で感じてきた。

感覚にそぐわない情報は、
高校生の時から
じつは受け入れてなかったんだな。

*************

年金も払ってない、
払えてないから、
老後が心配だ。

マイナカードも作ってないから
健康保険も心配だ。

誰かから見たら
ろくな死に方出来ないかもしれない。

誰かから見たら
ろくな生き方してないかもしれない。

「こんなふうに生きたら、
こんなふうに死ぬんだな。」

そこでコンフリクトして
苦しまないような
老後を迎えたい。

だから今、
「望んだ僕」で
いられる場所に住んで、
望んだとおりの「僕」でいたい。

「望み」にはいつでも
「抵抗」が混じるものだから、

想ったとおりの僕」である
という事実から、
「抵抗」や「望み」を
逆算してみるのも「手」かもしれない。

それは「今いる場所」から
「これから行く場所」への
エネルギーとなる。

冒頭で言った、
がんじがらめになっている
視点を変えてみたら、
そんな
夢を叶えた暮らしをしている
とも
想える。

よく想い返してみたら、
今、一方で望んでいた
「自然と共にいられる暮らし」
をしている。

もう一方、
歌い、奏でる日々は、
なかなか長年停滞中だ。

でも想っている。
望んでいる。

それに合わせ、
社会の形態が変わってきている。

今の欲求の根源を探る旅だ。

なぜ歌うのか?
なぜ畑を耕すのか?
なぜ薪を拾うのか?
なぜ「誰か」を求めるのか?
なぜお金を求めるのか?
なぜ仕事を求めるのか?
なぜ子が愛おしいのか?
なぜこの人と一緒にいるのか?

実を結ぶ時が
いつかきっと
現れるでしょう。

今生じゃないかもしれないけど、
きっと
人生振り返れば
納得できるんじゃないかな(笑)

僕らは「最初の音」から
ずっと響き合いながら、
「今」の存在までたどり着き、
この先も
ずっと生まれ、消え、生まれ、消え、
響き続けていくのだから。

*************

音楽のマネタイズが
難しいなら、
今後、マネーの意義は
失われてゆくんじゃないかな?

なんて、世界の片隅にいる
ちっぽけな「僕」の響きは
感じています。

(インボイスとかも相まって、
金銭でやり取りする手法が
面倒くさくなってない?)

「評価経済社会」などと言われたら
言われたで、
より多くの「評価」を
得られなければ価値ない社会なので
窮屈なのですが、

生きて在る時間を、
今後とも
正直な感覚を参考にして
使っていこうと
想っています。

2022年、6月に発表した6曲は
こちらのストリーミングサイトから

noteのマガジンでダウンロード販売もしてます。
お気持ちで課金していただけるならコチラ

*************

2023年1月に完成させた6曲。

先ずはnoteのマガジンで販売開始して、

2023.02.20にはコチラから↓

ストリーミングで無料で聴けるようになる
手筈を組みました。

*************

社会に合わせてマネタイズに思考を凝らすことより、
望んだ「僕」で、
こう生きたから、こうなった」を
納得させるためには、
まだ、更なる作品が必要です。

レコーディングは他にも
大体仕上がっている曲も多くあります。

2023年中に、
あと6曲×3。
ローンチしてやろうと
考えています。

「ミュージシャンとして、
どんな生活をしていたい?」

そんな質問がピンと来ない面、あります。

歌えばそこに現れる現実。
現したい現実を、
いつも歌って踊っていたい。

そのためには
なかなか奪われにくいものだけど、
巧みに奪われかけてしまう、
「音楽」の大切さを、
護れる暮らしが
出来たらいいな。
と想っています。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。