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時代が求めた作品 |『ステップフォード・ワイフ』(1975)


※ネタバレあり

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今回はこの続きです。

『ドント・ウォーリー・ダーリン』を見てモヤモヤッとしてしまったけど、オマージュ元の作品を見れば何かわかるんじゃないかと思い、『ステップフォード・ワイフ』(1975)を見ることにした。


あらすじはこんな感じ

ベストセラー作家、アイラ・レヴィン原作の「ステップフォードの妻たち」を映画化したサスペンスミステリー。上流階級の人々が住む美しい街・ステップフォードにやってきた1組の夫婦。妻のジョアンナはそこに住まう従順な妻たちに奇妙な違和感を覚える。

「キネマ旬報web」より


この作品を見て、やっと色々なことがスッキリした。

アメリカで、ベティ・フリーダンによる著者「女らしさの神話」が出版されたのが1963年。様々な分野でキャリアを築こうとしていた女性たちの多くが、いつのまにか郊外で専業主婦となり、外面的には豊かな生活を送る。しかし、自分の能力を生かせないまま、「妻」「母」の役割だけが求められることで、彼女たちの中に不安や満たされない感情が積もり積もる。こういった問題をフリーダンは「名前のない問題」と命名し提起した。

これが大きなきっかけのひとつとなり、ウーマン・リブ運動がはじまる。多くの女性が、社会から要請される「伝統的女らしさ」や、典型的な性別役割分業に抵抗するため声をあげた時代。と同時に、こういった変化を恐怖に感じる人たちの反発が生まれた時代でもあった。

原作であるアイラ・レヴィンの「ステップフォードの妻たち」が出版された1972年、そして映画『ステップフォード・ワイフ』が公開された1975年は、そんな時代の真っ只中だった。


この作品には、当時の社会の空気が切実に映されているんじゃないかと思う。女性たちが活躍し始める時代、それに恐れや不満を感じる男性たち、まさにその時代が求めた、生まれるべくして生まれた作品だったんじゃないだろうか。

主人公のジョアンナがセミプロの写真家である、という設定もおもしろいなと思った。彼女は、郊外に引っ越すからといって写真家としての夢を捨てたりはしない。自己実現を諦めずにいる人物として描かれている。

作中で、男性が女性たちを絵の被写体として一方的にまなざす場面があった(これはおそらく女性たちをロボットにするためのデザイン画のようなものを描いている)。女性が欲望の対象物として、受動的な「見られる」存在として押し込められる。それに対抗するかのように、ジョアンナはステップフォードの街でもシャッターを切り続け「見る側」で居続けようとする。それはまるで、主体としての「視線を奪い返す」行為であるように感じた。

ラストの、奥様たちが買い物しながら挨拶し合うシーン。かなりホラーなバッドエンドだが、これが映画『Barbie』でバービーたちが「Hi, Barbie!」と互いに挨拶し合うハッピーなシーンと呼応しているようで、そういう発見があったのもおもしろかった。

実は『ステップフォード・ワイフ』は2004年にもニコール・キッドマン主演でリメイクされていて、こちらはかなりハチャメチャなコメディ作品だった。ただ、2004年版にしろ『ドントウォーリー・ダーリン』にしろ、この良き作品をどうにか現代版にアップデートしようと試行錯誤して生まれた作品だったんだな、ということがやっとわかった。結局アップデートが難しくて、”『ステップフォード・ワイフ』を基にしたSF”という自らつくったルールに振り回されて、色々ごちゃごちゃしてしまったんだろうな。

やっとスッキリしました。とはいえオリヴィア・ワイルド監督やピュー様たちがやろうとした志を私は支持したいです。
1975版『ステップフォード・ワイフ』の当時時代を反映した物語の素晴らしさと、当時ならではのバッドエンドを見たら、「この作品を今の時代に生き返らせたい」と思うのはすごくわかる。実際につくってくれた人たちありがとう。

そしてそのラスト、ピュー様が覚醒し仮想空間から逃げ出そうとするその姿は、未来に繋がる今の時代を反映したハッピーエンドだったといえるのかもしれない。めちゃくちゃ不穏だったけど。



ちなみに、DVDについていたメイキングを見たら、制作陣がインタビューと称してかなりあけすけに正直すぎる暴露大会みたいなことをしていたので笑いました。

配信がないみたいですが、ぜひ見てみてほしい作品です。


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