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20240214 野外劇と制約


さて、今度の5月に行う野外劇のためにテクストを読んでいる。小説を元に演劇を上演するのだけれども、これがけっこうな長編で、単行本でも二段組で437頁ある。文庫版にすると上・下巻の合計で800頁弱という、かなりの大長編である。

▼小説を上演するからといって、たとえば頭から順番にリーディングのような形式で読んでいったら、読み通すのに冗談抜きで一週間はかかるような分量である。一生懸命声に出してぜんぶ読んでいくのもおもしろそうだが俳優の喉が潰れてしまいそうで心配である。膨大なエピソードの中から取捨選択を重ねて、あたかも一冊の小説を読んだかのような感触を観客の方たちと共有できたらいいなと思いながらいろいろと思案を巡らせている。

▼小説を演劇にするといったときに、うっかりすると話の筋を脚本に起こそうとしてしまうけれども、今回それをやると大怪我をしかねない。ただでさえ長い物語をダイジェスト版でお届けしたとしても、それはただの梗概であって”演劇”にはなってくれない。しかも今回の野外劇は上演時間を60分程度にしたいと思っているので、いよいよ大変である。

▼「演劇の時間」というのがある、と、個人的に考えていたりする。舞台上での1時間が、日常生活で過ごしているのと等しい感覚のただの1時間にはならないようにするために、そこに居合わせる人たちの時間感覚をある種歪ませるような上演にすることが、演劇にはできたりする。実際問題として、今回は野外劇なので客席も仮設のものなので、室内の劇場の客席ほど快適とはいえない客席に2時間も3時間も座っていていただくのは厳しすぎるという事情もある。

▼時間と空間に対して、いかに俳優のエネルギーで働きかけられるか。室内の劇場で使えるような複雑な照明も音響も舞台効果も使うことができない。俳優の力だけでどれだけ観客の方々の感覚に訴え度肝を抜くことができるかという、考えてみると割とシンプルな勝負である。

▼大長編の小説だけれども、それを60分で上演するという制約があればこそ、かえってその物語の核を伝えられる可能性が出てくるのだと楽観的に信じている。文学はいつだって自由である。誰も私たちから物語を奪えないし、本をどう読むかということに正解も不正解もない。俳優のからだによって、言葉が言葉を超えていくような瞬間を、いくつもいくつも積み重ねられたらと想像している。

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