見出し画像

ある男|4−5|平野啓一郎

カクテルを待つ間、城戸は、丁度今流れているらしい、ビリー・プレストンの《キッズ・アンド・ミー》というアルバムのケースを手に取って眺めた。その賑やかな楽曲のただ中で、城戸と美涼との間の沈黙は、心細く佇んでいた。

 彼は、高木を話に加わらせないような小声で、彼女に説明するように言った。

「谷口大祐さんが北朝鮮に拉致されてるなんてことになれば大問題ですけど、〝X〟が大祐さんと入れ替わったのは、そんなに前の話じゃないでしょう? 拉致事件とは時代が違いますから。……それに、〝X〟は宮崎の小さな町の林業の会社で働いてたんです。北朝鮮の工作員なら、そんな田舎で、じっとしててもしょうがないでしょう。」

 そう肩を窄めて語りながら、城戸は、日本人ではないのではないかという疑いが、自分と〝X〟との間に心理的な通路を開いたのを感じた。他人からそのように見られる境遇であるということが、彼の〝X〟への同情心を強くした。

 美涼は、「はい、二杯目。」と少し笑ってグラスを差し出すと、城戸の言葉には何も応えずに言った。

「ダイスケは、かわいそうでしたよ。生体肝移植のドナーのリスクって、知ってます?」

「いや、詳しくは。」

「その頃に聞いた話ですけど、日本では五千五百人に一人くらいは死んでるんですって。」

「提供する側が?」

「そう。0.02パーセント弱。——99.98パーセント以上の人は死ななくて、でも、そのうちの一、二割の人は、疲れやすくなったり、傷が痛んだり、色々後遺症があるらしいんですよね。精神的に落ち込んだりとか。」

「大祐さんは、お父さんから直接ドナーになってくれって頼まれてたんですか?」

「それは、言いませんでしたね、絶対に。……でも、お父さんとお医者さんがそんなことを望んでなかったら、『頼まれてない。』って、言うでしょう?」

「恭一さんは、飽くまで大祐さんが自分の意思で、進んでドナーになったって言ってましたけど。」

「ダイスケは、そう言ったと思いますよ。〝家族の愛に飢えて〟ましたから。」と、美涼は、その常套句を、物悲しそうに口にした。「……それだけじゃなくて、何て言うか、義務感もあったと思いますよ。あの時は、お父さんを救えるのはダイスケだけだったし、……リスクって、白か黒かじゃないじゃないですか? 五千五百人の中の一人になんか、なりっこないって、どうして思えないんだって、彼は自分をすごく責めてたんですよ。他のドナーが家族のために当然していることを、どうして自分は恐がってしまうのかって。手術後、大半の人は何の不自由もなく元気に生活してる。そう医者からも説明を受けてるのに、自分は、その一握りの後遺症で苦しむ人たちのことばかり考えてしまうって。」

「わかりますよ、それはでも。」

「わかりますよね? けど、なんか、自分をすごく追いつめて、結局、最後に決断したんです。端で見てて、わたしはそれがかわいそうで。……何もできませんでしたけど。」

 城戸は、谷口大祐への憐憫と美涼への共感を両ながらに示すように、小刻みに何度も頷いた。スピーカーからは、〈You are so beautiful〉という、有名な甘いバラードが流れていた。

「Such joy and happiness you bring..just like a dream..」という二番の歌詞のあと、ピアノとストリングスが、これでもかというくらいドラマチックに盛り上げてコーラスに至ろうとしていた。ふと見ると、美涼は涙ぐんでいた。谷口大祐のことかと思ったが、

「わたし、この歌に弱いんですよ。最近、歳でますます涙もろくなって。」

 と、自分でも驚き、困っている様子で、笑って眼を拭った。城戸は、その愛らしい表情に心惹かれた。そして、彼女の笑顔の反響のように微笑して、

「ジョー・コッカーの脂っこいヴァージョンしか知らなかったけど、これがオリジナルなんですか?」と尋ねた。

ここから先は

1,055字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?