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ある男|5−3|平野啓一郎

城戸は聞き上手で、里枝も自然と饒舌になった。遺品を引っ張り出してきて並べながら、電話では余り詳しく語らなかった〝X〟との馴れ初めやその人となりについて話した。

城戸は、〝X〟が描き溜めたスケッチブックを、一冊ずつ時間をかけて見ていった。里枝は、静かにじっと何かを考えている人の横顔を久しぶりに見た気がした。

「人柄が偲ばれますね。少年がそのまま大人になったみたいな絵ですね。」

「一生懸命描いてるんです。人に見てもらうような、上手い絵じゃ全然ないですけど、あの人の心の鏡みたいな感じで。……この絵の通りの人だったんです。すごく純粋で、真面目で、思いやりがあって。嘘を吐いて人を欺したりなんて、絶対に出来ないような人だったんですけど。……」

城戸は、よくわかるという風に相槌を打って、励ましの言葉を口にした。そして、〝X〟の身許調査も引き受けてくれたが、その費用は、申し訳ないほどに安かった。

里枝は、思わず、

「城戸先生は、いい人ですね、本当に。」

と呟いたが、そんな言い方はないだろうと、すぐに後悔した。

彼女は、本心からそう感じていたし、彼にはそう言ってあげたい気もしていた。しかし、あらゆる意味で不適切には違いなかった。

城戸は、目を瞠って少し身を仰け反らせると、「仕事ですよ。」と笑った。

里枝は、中年の無闇な寂しさに、自分の方こそ敏感になっている気がして恥ずかしくなった。

城戸が宮崎にいたのは、僅かな時間だったが、帰ってしまったあとは、実際、里枝自身が何となく寂しかった。彼にもっといてほしいなどと思ったわけではなかった。ただ、今の自分がぼんやりと寂しくなったのだった。

彼女は、刑事に言われた「死んだのは誰なんですか?」という言葉を、その後、何度となく反芻した。同じことだったが、彼女はそれを「誰が死んだの?」と、問い直していた。すると、少し意味が変わる気がした。

人生は、他人と入れ替えることが出来る。──そんなことは、夢にも思ったことがなかったが、彼女の夫は実際そうしていたのだった。別人の生を生きていた。しかし、死は?死だけは、誰も取り替えることが出来ないはずだった。

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