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『マチネの終わりに』第八章(36)

 「年齢的な問題もあるよ。俺も、武知君も。――比べるのもおこがましいけど、ジョン・ウィリアムスのスカイだって、四十前後だからね。巨匠なをもて往生す、いはんや凡人をやだよ。」

「そう? スカイ、僕は好きだけどなあ。」

「俺は、駄目なんだ。でも、わかるよ、ああいうことしたくなるのは。……俺もギターをスモールマンにしてみたりとか、しばらく迷走してたけど、弾かない時間のお陰で、自分の演奏を根本から見直せたし、必要なプロセスだったと思うようにしてる、今は。武知君だって、何年かしたら、心境も変わってるかもしれないよ。」

 武知は、「……そうだね、」と、同意するように笑った。

 それから二人は、一緒にエレベーターに乗って、それぞれの部屋に戻った。

 別れ際には握手をしたが、蒔野にとっては、翌日、東京駅で交わした最後の握手よりも、こちらの方が強く記憶に残ることになった。

     *

 蒔野はその日、南青山のブルーノートで催されたベルギー人のテルミン奏者のコンサートに、ゲスト参加していた。共演者は他にもいて、蒔野は、ラフマニノフやラヴェル、ヴィラ=ロボスらのヴォカリーズ作品が演奏される場面で伴奏を務めた。グローブがプッシュしている美男の演奏者で、興味本位で軽く引き受け、それなりに楽しんだ、というような手応えだった。

 二度のステージを終え、一杯だけ付き合って、帰宅したのは深夜だった。出産予定日を来月に控え、早苗もこのところは早い就寝だったが、この日に限ってはまだ起きていて、リヴィングのソファに独り座っていた。どこか、ぼんやりとした様子で、目許には泣いたようなあとがあった。

 蒔野は、異変に気づいて、「どうした?」と楽器を置いて理由を尋ねた。

 早苗は黙って、葉書を一枚、彼に差し出した。手が震えていた。蒔野は立ったままそれを受け取ると、文面に目を通して、「……は?」と腹を立てたかのように声を上げた。

 ギタリストの武知文昭の訃報だった。


第八章・真相/36=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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