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ある男|5−1|平野啓一郎

谷口恭一の訪問を受けた日、里枝は、思いもかけない事実を突きつけられて、気が動転したまま、一緒に警察署を訪ねていた。恭一への不信感は固より、恐らくは法秩序を逸脱しているこの事態を、ともかく通報しなければ、と思ったからだった。

警察署は、彼女が高校時代、いつも通学で利用していたバスセンターから目と鼻の先だったが、足を踏み入れたのは初めてだった。

里枝には一つ、意外なことがあった。

早まってありのまますべてを刑事に話したものの、こんな不可解な出来事が発覚すれば、たちまち大騒ぎになるのではと、途中から不安を感じ始めていた。事件として捜査が始まれば、悠人や花も無関係ではいられまい。狭い町のことなので、噂はあっという間に広まるだろう。新聞沙汰にもなるのではあるまいか。……

しかし、担当した刑事は、最初からなぜかずっと不機嫌だった。二人の混乱した説明に、しきりに首を傾げ、

「え? じゃあ、死んだのは誰なんですか?」

と問い質した。そして、特に署内の誰に相談するわけでもなく、ひとまず恭一に、谷口大祐の捜索願だけを出させた。里枝は、死んだ夫が一体誰なのかを知る術を尋ねたが、それについては、とにかく谷口大祐の捜索が先だと、取り合ってもらえなかった。

警察からはその後、まったく音沙汰がなかった。二週間待ってこちらから電話をすると、失踪者名簿と照合しても、合致する人物はいなかったとだけ素っ気なく伝えられた。夫の身許について里枝が喰い下がると、「現状では調べようがないんです。」と突っぱねられてしまった。

里枝は、自分が何をすれば良いのか、わからなかった。

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