『マチネの終わりに』第六章(56)
照明が眩しかった。彼のために、空港のトイレで化粧を直して以来の自分自身との再会だった。どんなに我慢しようとしても、自然と笑顔になってしまうのを、「ヘンな人と思われるわよ。」と心の中で囁きかけていたのが、遠い昔のことのような気がする。
メールは、蒔野からだった。洋子は動悸を抑えながら、窓辺のソファに腰掛けて、それに目を通した。
「やっと、帰宅しました。
夜送ったメール、読んでくれた? 返信がなかったから気になっていて。
せっかく来てくれたのに、こんなことになってしまって、本当に申し訳ないです。
事情が事情だけに、洋子さんならきっと理解してくれると信じてるんだけど、……ヒドい雨だし、こちらのトラブルで連絡も遅くなってしまって、心配しています。
状況的には、前のメールで説明した通りです。厳しいけど、どうにか危機は脱したし、現実として受け容れて、出来る限りのことをしていくしかないです。自分自身の年齢も意識しました。ギターを弾き始めてから今日までのことを思い返しながら。
洋子さんも、長旅で疲れたよね。今はホテル? 豪雨の中、本当にごめん。やっぱり今日(もう昨日だね)洋子さんに会えなかったのは、僕自身もすごく残念でした。
ゆっくりして、少し落ち着いたら電話くれる?
今後の相談は、またその時に。僕ももう、休みます。
蒔野聡史」
新宿駅で読んだ、あの思いつめたメールの口調とは、随分と違っていた。顔を合わせると冗談ばかり言っている蒔野の表情が思い浮かんだが、さすがに今は、その気楽さが調子っ外れに感じられた。彼女は、今度は静かにその文面を辿ることが出来たが、薬が効いているせいもあるのだろうと思った。
どこかに行っていたのだろうか? 「どうにか危機は脱した」というのは、練習でもしていたのか。その高揚感が、思わず文面に表れたのか。――いずれにせよ、彼の中では、もう終わってしまったことなのだと、洋子はその穏やかな口調のメールを読んで、一通目よりも、却って寂しく感じた。
第六章・消失点/56=平野啓一郎
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