『マチネの終わりに』第八章(23)
自らは無信仰であるにも拘らず――いや、むしろ、人生で何度か、信仰へと強く引き寄せられた時期があり、しかも結局、踏み止まったが故に――、彼女はこれが、信仰を巡る物語であることに、当たり前に強くこだわった。そして、食い下がろうとする雰囲気の早苗を制するように、改めて尋ねた。
「それが、わたしに話したかったこと?」
早苗は、その一言に反発し、押し返そうとする力が余って、これまで言い淀んでいた言葉を、とうとう口にした。
「今日のコンサート、洋子さんには来ないでほしいんです。お願いします。チケット代は、お返ししますから。」
洋子の眸は張りつめた。しばらく黙っていたあとで、小さく息を吐くと、
「ただのファンなのよ、蒔野さんの音楽の。あなたに許可を求めないといけないことなのかしら?」
と小首を傾げた。洋子は、その仕草に微かな笑みを添えたが、それは、会話をこれ以上、刺々しいものにしたくなかっただけでなく、「ただのファン」であるというに留まらない、蒔野に会いたいという気持ちを見透かされて、咄嗟にごまかそうとしたからだった。意識の上では、決してそういうつもりではなかった。しかし、本心では、彼との再会に、何らかの期待がなかったとは、恐らく言えなかった。
自分と蒔野との間に、今以て警戒すべき一つの関係のあったことを、早苗は知っているのだった。その予感が、決して見当違いではなかったことを、洋子はこの時、ようやく覚った。
「会場にいてほしくないんです。洋子さんに気づいたら、蒔野は音楽に集中できなくなります。だから、困るんです。」
「大丈夫よ。すごく後ろの席だから。――もう随分と、彼とは会ってないんだし、それに、……」
「わかります。」
「え?」
「どこに座ってても、洋子さんがいたら、蒔野は絶対に気がつきます。――絶対に。」
「……。」
第八章・真相/23=平野啓一郎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?