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ある男|6−1|平野啓一郎

「谷口大祐」の死亡届を無効とし、里枝を武本姓の戸籍へと復帰させる裁判所への申立は、審判が下されるまで最短で二ヶ月、長くて一年ほどかかるだろうと城戸から説明されていた。後者については、もし却下されれば、婚姻無効確認訴訟の必要があると説明されていたが、実際には五ヶ月後の八月初旬にいずれも認められることとなった。

DNA鑑定の結果、〝X〟が「谷口大祐」でないことは科学的にも確定し、里枝の経歴から、二度目の結婚の事実は抹消された。

過去は訂正され、彼女は一度しか結婚しておらず、今はもう、夫に先立たれた未亡人ではなかった。しかしそれは、彼女の中で連続している記憶とは必ずしも合致せず、却って乖離してしまっていた。

単に手続きが間違っていたというのではなく、彼女自身の行為が間違っていたのだった。「谷口大祐」という、会ったこともない人と結婚したのだと思い込み、周囲にも公言し、どこで何をしているのかもわからないその人が、死亡したと勝手に役所に届けを出していた。そう思うと、ふしぎなような、惨めなような、悲しい気持ちになって、彼女は自分こそ、一体誰の人生を生きているのか、その手応えを失ってしまった。

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