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ある男|6−3|平野啓一郎

「本当に大丈夫なの?」

「うん、……体は別に、元気だから。」

「じゃあ、何? 気分的なこと?」

悠人は、何かを考えている様子でじっとしていた。もう身長は里枝を抜いてしまっていて、頬にはニキビが出来ている。悠人はまた頭を掻き、手で顔を拭い、唇を噛んで言葉を探していた。

「言ってみて。」

「僕、……苗字やっぱり、変えたくないなあと思ってさ。……谷口のままじゃダメなの?」

里枝は、どうしてそのことをすぐに理解してやれなかったのだろうと、自分の迂闊さを思った。悠人は、死んだ父を巡って今何が起きているのか、何も知らないまま、ただ、旧姓に戻すと告げられていた。そして、それに対しては、案外素直に、「わかった。」と頷いただけだった。

「生まれた時は〝米田〟だったのに、お母さんが離婚して〝武本〟になって、小学校に入ったらすぐに〝谷口〟に変わってさ。……中学に入って、新しい友達も先輩も後輩も、みんな〝谷口〟って呼んでるのに、また〝武本〟に戻るのは、なんかさ、……武本って、お母さんにとっては馴染みがあるかもしれないけど、僕にとってはおじいちゃんとおばあちゃんの名前って感じなんだよね。だから、なーんか、ヘンでさ。……谷口って呼ばれる度に、また武本に戻ったって訂正して回るの、嫌だなあと思って。……」

「……そうね。」

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