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『マチネの終わりに』第六章(54)

 彼という人間が、考えに考え抜いて、こんな身勝手なタイミングにまでずれ込んでしまったその決断を。相手を一時傷つけてでも、今どうしても伝えねばならないと思いきった結論を。初めて出会った時から、九カ月という時間を過ごしてきて、結局、自分が人生を共にすべきは、あなたではなかったという、その偽らざる実感を。……せめてそれが、彼のためだと信じられるのであれば、自分は彼を愛しているが故に、彼との愛を断念できるのではあるまいか。――

 そんなことを考えられる自分に、洋子は或る意味、驚いた。それもまた、年齢的な変化なのだろうか? それとも元々、愛とは違った何かだったのだろうか?

 洋子は悲しかった。しかし、その底の見えない無闇な悲しみに身を委ねることが、今は恐かった。先ほどのフラッシュバックは、何か今までとは違って、思い出すというより、からだごと、あのイラクでの記憶の中に飲み込まれてしまったかのようだった。今いる場所の現実感を、短い時間とはいえ完全に喪失していた。あんなことが、今後も起きるのだろうか?

 これまで少しずつでも回復に向かっていると信じていたが、洋子は初めて、自分の体調がむしろ悪化しているのではないかという不安を抱いた。ここで踏み止まれなければ、「早くて一年」という完治までの時間は、終わりも見えないまま、際限なく先延ばしになりそうだった。

 傍らに蒔野の存在はなくとも、何とか独りで、日本にいる間は、持ちこたえなければならなかった。自分のために、とにかく、しっかりしないといけない。せめて長崎で、母に付き添っていてもらえるまでは。……

 今夜一晩は、もう何も考えてはならないと、洋子は自らに命じた。

 朝まで待てば、蒔野から、何か違ったメッセージが届くかもしれない。あまり考えられないことだったが、そうした期待は否定できなかった。それまでは、ただ横になって、この不安な場所から、いつもの自分へと流れ着くのを静かに待っているより他はなかった。


第六章・消失点/54=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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