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ある男|12−3|平野啓一郎

六時過ぎに元町・中華街駅のビルに入っているこども園に迎えに行くと、颯太は、大急ぎで友達と遊んでいたブロックを片づけ、満面に笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

保育士からは、一日特に問題なく過ごしたという報告を受け、しばらく友達と名残を惜しむようにじゃれついたあと、「ごいっしょに、さようなら。」といういつもの挨拶をして園を出た。

海風の強い日だった。夜の闇にそのシルエットだけを許されている街路樹が、クリスマスのイリュミネーションを煌めかせている。元町の華やぎを尻目に、信号待ちをしていると、見知らぬ男が、なぜかしきりに電柱を蹴り続けている。

城戸は、それとなく颯太の手を強く握って、その男から数歩、遠ざかった。青になっても、男はその場に留まり続けたので、直に姿は見えなくなった。特に何も言わなかったが、颯太も心持ち、早足で歩いていた。

信号の度に、ビルの谷間から冷たい風が吹きつけてきた。城戸は、コートの前を閉じ合わせながら、繋いだ手から食み出している颯太の指先を気にした。

「さむくない? だいじょうぶ?」

「うん。……ねえ、おとうさん?」

「なに?」

「ウルトラマンって、くちがうごかないのに、なんで、『シュワッチ!』とかいえるの?」

「え? なんでかな。」

城戸は笑って首を傾げた。颯太は、それがどんなにおかしなことかを、勢い込んで、目を丸くして説明した。

「そうだな。……まあ、でも、ウルトラマンは、とんだり、スペシウムこうせんをはっしゃしたり、いろんなことができるんだから、くちをうごかさずにしゃべることくらい、むずかしくないんじゃないかな。」

城戸は、我ながら気の利いた答えだと思ったが、颯太はその理屈にまったくピンと来てないようだった。

帰宅後は、ミートソースのスパゲティと冷凍物のハンバーグを二人で食べた。それから、颯太がテレビを見始める前にソファで膝の上に載せて、「けさはおとうさんも、おおきなこえをだしてごめんな。」と謝った。

颯太は、「うん。」と頷いたが、それよりも早くテレビを見たがった。

「あさはおとうさんも、しごとにちこくしそうでいそいでたし、そうただって、こどもえんにちこくしたら、こまるだろう? それでおこっちゃったけど。」

「うん。」

「あしたのあさは──こっちみて──ちゃんと、まにあうようにじゅんびしよう。」

「うん。」

「よし、じゃあ、このはなしはおわりだ。いいよ、テレビみて。」

そう言って、城戸はもう一度、息子の頭を撫でて、その小さなからだを抱擁した。

入浴を済ませて寝室に行くと、電気を消した真っ暗なベッドで、一緒に横になった城戸に颯太が言った。

「おとうさん。」

「なに?」

「もし、ぼくと、ぼくのニセモノがいたら、ほんもののぼく、わかる?」

「なんだ、それ?」

颯太は、こども園で読んでもらった『アンパンマン』の絵本の中に、バイキンマンが扮した偽物のアンパンマンが登場した話をした。

「あー、そういうことか。……そりゃ、わかるよ。じぶんのこどもだから。」

「どうやってわかるの?」

「みたらわかるよ。こえとか。」

「でも、みためもこえも、まったくおなじだったら?」

「そしたら、……そうだな、おもいでをきいてみるよ。きょねんのなつ、いっしょにいったかぞくりょこうはどこだった?」

「ハワイ!」

「そう。ニセモノは、そとがわだけマネしても、おもいではわからないだろう?」

「そっかあ。おとうさん、すごい! じゃあ、おとうさんのニセモノがいても、おもいでをきいたらいいんだよね?」

「そうだよ。」

「じゃあ、……ハワイにいったとき、おとうさんはこんなおっきな、ぞうりみたいなステーキをたべたでしょうか、たべてないでしょうか?」

「うん、そうだよ。まあ、そのききかただと、ニセモノにもわかっちゃうかもしれないけど。……」

そんな話をしばらくしているうちに、少しずつやりとりが間遠になり、やがて傍らから小さな寝息が聞こえてきた。城戸は、暗がりの中で急速にそれが深まって行くのを待ってから、布団を掛け直し、そっと寝室をあとにした。

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