『マチネの終わりに』第八章(29)
勿論、それとて「感想は感想」だった。ところが、野田は、たまたま岡島に用事があってそのデスクに足を運んだ際に、件のブログの管理画面が開かれているのを目にしてしまった、というのだった。
彼は、それを見なかったことには出来ずに、その場で岡島を問い詰めた。社員だからといって、私的なサイトで所属アーティストの悪口を書いてはならないというわけではない。しかし、岡島は、自分でわざわざそのアマゾンのレビューを野田に知らせ、一緒になって憤慨していたはずだった。
「ヒドいじゃないですか、岡島さん。まるで、僕や蒔野さんへの意趣返しみたいに。」
岡島は、野田の声が聞こえないかのように、ただ顔を真っ赤にして無視していたのだという。そして、一日誰とも口を利かずに過ごした挙げ句、翌日、会社に辞表を出したらしかった。
蒔野は、呆気にとられて話を聞いていたが、その結末に至っては、深い嘆息を漏らした。
グローブで、岡島が閑職を不服としているという噂は耳にしていたが、蒔野としても、どうすることも出来なかった。
その酷評が、すべて恨みから出たとも思わなかったが、後味の悪さはしばらく尾を引いた。せめて武知を慰めるために、蒔野は事情を説明してやったが、人のいい武知は、
「そんなことで辞めなくったっていいのに。」
と不憫そうな顔をしていた。それでも、少し気が楽になった様子だった。
蒔野は、舞台に上がる前には、三十分ほど必ず一人にしてもらうことにしていた。
彼は、以前とは比較にならないくらい緊張するようになっていたが、今はその音楽に対する畏れの感情をないがしろにしなかった。自分が長らく囚われていたあの孤独な静寂から逃れて、今は、観客が持ち寄るささやかな静寂の集まりに包まれているような感覚だった。
咳一つで簡単に破れてしまうその沈黙を、皆がどうにか繕いながら、始めから終いまで保っている。彼らは積極的に音を放棄し、二人の演奏者に、静寂の使い道を委ねていた。
第八章・真相/29=平野啓一郎
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