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ある男|5−4|平野啓一郎

遼を診察した医師は、すぐに大きな病院で診てもらった方がいいと紹介状を書いた。脳腫瘍の疑いを告げられたのは、この時が初めてだった。

翌週、MRI検査の結果、遼は大脳基底核に脳腫瘍が出来ていて、「典型的なジャーミノーマ」と診断された。おねしょも喉の渇きも、それに伴う尿崩症だという説明だった。

里枝は、この最初の診断の後、ほとんど縋るようにしてその「治る」という言葉を信じてしまったことを、今に至るまで後悔していた。尤も、医師も最初はジャーミノーマという診断に自信を持っていて、あとから主張するほど、グリオブラストーマの可能性を説明しなかったはずだった。現実と向き合うことは難しかったが、意外にも夫は、いち早く完全にこの診断を受け容れた。彼は、この過酷な運命に敢然と立ち向かうことに、自尊心の拠りどころを見出し、奇妙な高揚感をさえ顕わにした。それは、ここに至るまで、息子の病気への対処を巡って妻から傷つけられた矜恃の一種の補償となった。ほとんどはりきっているような有様だった。

しかし、実際に当時働いていた銀行を辞め、入院中の遼の隣に簡易ベッドを持ち込み、三ヶ月間、寝泊まり看護を続けたのは里枝だった。夫は、「治る」と思っていたからだった。そして、「とにかく化学療法と放射線治療をやってみるのが合理的」と、里枝の理解の悪さを〝文系〟で〝女〟だからだと苛立ちながら繰り返し詰った彼は、その治療がどれほど苦しいかがまるでわかっていなかったのだった。

里枝は、絶え間ない嘔吐に苛まれ続けていた遼の姿を、努めて思い出さないようにしていた。口内炎が酷く、つばを飲み込むことさえ痛がって泣き喚き、見る見る痩せていった。彼女自身も、ほとんど眠ることが出来ず、食事も喉を通らなくて、元々小柄なのに、たった三ヶ月で九キロも体重を落とした。それでも「治る」と信じていたからこそ、苦しさで暴れる遼を抱きしめながら治療を受けさせていたのだった。

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