見出し画像

『マチネの終わりに』第九章(10)

 洋子の人生も、もう随分と先へと進んでいるのだと蒔野は思った。彼女の存在が、震災後の自分の音楽活動にとって、どれほどの支えになっていたかを、本人に知らせる術はなかった。世界のどこかで、自分の新しいバッハを聴いているかもしれないという期待はあったが、別れの経緯を思い、彼女の現在の活躍を目にすると、それも望むべくもなかった。

 蒔野は、別れの日以後、初めて洋子の名前を検索してみて、彼女が現在所属するNGOのサイトも確認した。難民局はジュネーヴにあるらしく、今はもう、NYには住んでいないのだなと思った。先ほどのテレビには「Komine」という旧姓が表示されており、「アメリカ人の経済学者」はどうしたのだろうと気になったものの、「幸せだ」という是永の古い情報のせいもあり、洋子が離婚しているなどとは考えもしなかった。

 それでもとにかく、その姿を目にしたばかりに、蒔野は、レコーディング前日のこの夜、洋子にまた会いたいという抑え難い思いに捕らわれていた。震災後、彼は実際、今度はいつ、自身の身に襲いかかるやもしれない突然の死の不安の中で、多くの者と同様に、ただ未来へと、まっすぐに流れ続ける時間のために押し殺してきた欲望が、俄かに切迫感を帯びるのを経験していた。そして、彼がその時に思うのはただ一つ、洋子ともう一度、話がしたいということだった。

       *

 蒔野聡史のNYでのリサイタルは、二〇一二年五月の第二土曜日に催されることとなった。マーキン・コンサート・ホールでの午後一時からの公演枠で、チケットは二週間前に完売となった。プログラムは主催者とも話し合い、前半はブローウェルを中心に、ヴィラ=ロボスや武満徹といった二十世紀の作曲家の作品を、後半はバッハの無伴奏チェロ組曲の中から三曲を取り上げる構成にした。

 蒔野は、NYでの公演が決まった時、やはり、洋子が住んでいた町だということを意識した。そして、もしまだNYに住んでいたなら、自分は彼女に連絡を取ろうとしただろうかと考えた。彼は今日まで、洋子に自分から連絡を取るという考えを金輪際退けてきた。手許にあるのは、古いRFP時代のメール・アドレスだけである。しかし、是永に訊けば、今の連絡先もわかるのではないか。……


第九章・マチネの終わりに/10=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

---------

『マチネの終わりに』読者のみなさまへ

今後の『マチネの終わりに』についての最新情報、単行本化のことなど、平野啓一郎よりメールでお伝えします。ご登録お願いします。

登録はこちらから

▶︎ https://88auto.biz/corkinc/touroku/entryform4.htm

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?