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『マチネの終わりに』第九章(14)

 蒔野は、ここNYでも聴衆の心を掴んだのだと彼女は感じた。そして、コーヒーカップを皿に戻そうとして、自分の手が、目で見てはわからないほど微かに震えている音を聞いた。蒔野の演奏については、ただ、素晴らしいという言葉しか思いつかなかった。今日ここに来るまで、彼女はずっと、あの五年前の彼の記憶を大切に保管してきたのだったが、彼自身は、もうとっくに、自分の手の届かない世界へと離れていってしまっていた。彼を遠くに感じ、自分を何ら特別でない一人の聴衆に過ぎないのだと自覚した。それは彼女の体の芯で凝っていた強ばりを、少しくほぐしたが、同時に言い知れぬ寂しさをも齎した。蒔野が、こちらに気づいた様子はなかった。

 どうしてもバッハを聴きたかったが、自分を見つけることで、彼の集中力が乱され、この既に輝かしい成功が約束されているかのようなコンサートが台なしになってしまうのであれば、むしろ帰るべきではあるまいかと考えた。自分の存在が、蒔野にとっては邪魔なのだという早苗の言葉を、洋子は半ば納得したように感じた。

 洋子はせめて「おめでとう。」と一言伝えたくて、手帳を取り出し、手紙を書きかけたが、途中でページを破って手の中で丸めた。

 第二部の再開が告げられると、彼女は建物の出口とホールの入口とを何度か見比べた。今日は本当に爽やかないい天気だった。人気がなくなるまで、彼女はそこで迷っていた。そして結局、また座席へと戻った。

 洋子は、自分の感情が混乱し始めているのを感じた。再び蒔野が舞台に姿を現した。シャツだけ、白いものに着替えている。彼の遠さを感じている今だからこそ、来る前に考えていた彼との関係の区切りは、自然につけられるはずたった。しかし、いざその現実に直面すると、とうに断念されていた彼への思いが俄かに沸き起こってきて彼女を動揺させた。

 後半のプログラムであるバッハの無伴奏チェロ組曲は、第一番、第五番、第三番が選ばれていた。

 演奏が始まると、洋子は、俯き加減で、独り静かに考え事をしているような蒔野の姿を見つめた。ギターは、空間の一点にピンで留めて固定されているかのように微動だにしなかった。昔から、ノイズの少ないことが評価されていたが、会場の音響効果も手伝ってか、この日の音像は、鏡に映し出されたかのように細部まで透徹して冴えていた。


第九章・マチネの終わりに/14=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


▲バッハの無伴奏チェロ組曲 第一番


▲バッハの無伴奏チェロ組曲 第五番


▲バッハの無伴奏チェロ組曲 第三番

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