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ある男|4−4|平野啓一郎

父が国籍のことで、彼に真面目な話をしたのは、この時を含めて三度だけだった。

 もう一度は、高校時代に進路を迷っていた時で、父は、就職差別もあるから、何か国家資格を取った方がいいと助言した。

 城戸は、既に帰化もしていたし、第一、今時、悪い冗談じゃないかと面喰らったが、父は真顔だった。彼は結局、文系の生徒にありがちな、非常に曖昧な考えで法学部に進学したが、在学中に弁護士になろうと思うようになったのには、その父の言葉も影響していた。

 更にもう一度、父が息子の出自を気にしたのは、結婚をする時だった。反対はしなかったが、母方の祖母が、どうしてもチョゴリで式に参列したがっていたので、海外で式を挙げたらどうかと、母共々提案したのだった。

 城戸は、「そこまでしなくてもいいよ。」と呆れて首を振ったが、妻の両親がそのことを彼のために心配しているのを知って、しばらく考えた挙句、新婚旅行を兼ねて親類だけでハワイで挙式し、帰国後にレストランでささやかなパーティを催した。結婚の挨拶に行った際も、挙式で顔を合わせた時も、城戸は両親が卑屈なほどに義父母との対面に緊張しているのを、少し恥じるような、憐れむような気持ちで見ていた。

 つい最近まで、城戸の自分の国籍についての意識は、その程度であり、幾ら、あんまりぼんやりしすぎなんじゃないかと言われても、そう大した差別の記憶もなかった。そして、大学入学後に上京して、もっと深刻な差別の経験をしている同じ在日三世の話を聞いたりすると、その痛みを共有していないことに気後れさえ感じた。

 しかし、当人の自覚がどうであれ、他人から「朝鮮人」と見做されることの意味を、城戸が嫌な気分で考えるようになったのは、東日本大震災後に、ここ横浜で関東大震災時の朝鮮人虐殺について考えるようになってからだった。

 更に追い打ちをかけるように、昨年の夏、李明博が竹島に上陸して、日本国内のナショナリズムが沸騰し、極右の排外主義のデモまで報じられるようになると、彼は自分が住んでいる国の中に、行きたくない場所、会いたくない人々が存在していることを認めざるを得なくなった。それは、誰でも——どんな国民でも——経験することというわけでは必ずしもないのだった。

 その後、何の親切のつもりなのか、長らく音信不通だった大学時代の友人から、ネット上に城戸のことが、小学校の卒業アルバムの写真と一緒に、「弁護士も在日認定!」と書き込まれていると連絡があった。

 リンク先を見てみると、彼自身ももう忘れかけていたような独身時代に担当した強盗傷害事件の容疑者が、たまたま在日だったというので、今頃になって蒸し返され、あることないことで噴き上がっているのだった。

 城戸は、当の在日でさえ知らなかったような、時代がかったグロテスクな差別表現の狂躁に、これは一体何なのかと、傷つくというより唖然とした。しかし、そこに自分の名前が少年時代の写真と一緒に出ていて、スパイだの、工作員だのと罵られているのを目にすると、流石に心中穏やかではなかった。自分だけでなく、「既婚」で「子供が一人いる」という情報まで出ている。彼はそれに、マウスを持つ手が震えるほど腹が立ったが、同時に、何か体の芯から力が抜けて、存在が立ちゆかなくなるような感覚に見舞われた。その空隙に、冷たく、薄汚い不快が染み渡っていって、もうそのすべてを取り除くことは出来なそうだった。気分というものを、そんなふうに液状の何かと感じ取ったのは、この時が初めてだった。

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