ある男|11−5|平野啓一郎
彼の身許は、依然としてわからなかった。しかし、彼はこれだけ多くの木の中から、特にこの一本を好きだと感じるような誰かなのだった。
「今年の命日も、お母さん、お父さんのお墓、作ってあげなかったね。」
悠人は、子供でもこんな話し方が出来るのだと思うような、抑制した声で言った。
里枝は、ここですべてを説明しきれるとはとても思えなかったが、もう曖昧な返事は許されないと感じて口を開いた。
「悠人にずっと黙ってたことがあるんだけどね。」
「──何?」
「お父さん、……本当は、『谷口大祐』っていう名前じゃなかったの。」
「……え?」
「お母さんも知らなかったんだけど、……死んだあとで、本名じゃないってわかったの。谷口大祐さんのお兄さんが訪ねてきて、これは自分の弟じゃないって言って。」
「全然わかんないんだけど。……」
「他人の名前を名乗ってたの。」
悠人は口を開きかけたまま、ただ瞳だけを震えさせていた。
「じゃ、……誰だったの?」
「それをずっと調べてもらってるの。警察に行ったり、弁護士さんにお願いしたりして。」
「で、誰だったの?」
「まだわからない。だから、お墓も作れないの。」
「じゃあ、……僕の『谷口悠人』って名前は、……何なの?」
「谷口は、だから、お父さんがしばらく名乗ってた名前ね。わたしたちが知らない人の名前。」
「それで旧姓に戻したの、お母さん?」
里枝が頷くと、悠人は愕然とした様子で、しばらく母親の顔を見つめていた。自分の動揺が、どんな感情に委ねられているのかもわからない風だった。
「じゃあ、……お父さんが僕にしてくれた話は? 実家が伊香保温泉で、家族と喧嘩して家を出てきたっていうのは?」
里枝は、一瞬躊躇ったが、すぐに思い直して悠人の目を見ると、
「お父さんじゃなくて、その谷口大祐さんって人の話みたい。」と言った。
「嘘だったの?」
悠人は蒼白になった頬を強張らせた。里枝は、黙って小さく二度頷いた。
「何それ、……欺されてたの、みんな? え、……なんで? お父さん、……なんで嘘ついてたの? 何やったの?」
「わからないのよ、お母さんも。……だから、悠人に説明も出来ないし、もう少し色んなことがはっきりしてから言おうと思ってたんだけど、……わからないの。」
言葉はそのまま潰えてしまった。
やがて、花が、祖母に手を繋がれてスキップしながら近づいてきた。
「ママ、みて、パパのき!」
「そうね。」
「はなちゃん、こうおもうよ。──んと、パパ、はなちゃんたちがくるかなあとおもって、きょうはきのなかにはいって、まってたんじゃない?」
里枝は、悠人から視線を逸らしてしまうことを気にしつつ、花を見下ろして、「そうかもね。」と微笑みかけた。
「ねえ、ママ、しゃしんとって。」
「うん。ここで、パパのきといっしょにとる?」
「うん! そのあと、はなちゃんのきのまえでもとる。」
花が一番に木の前に立つと、里枝の母親もそれに従った。悠人は、立ち尽くしていたが、祖母に促されて、ふらっとその傍らに歩み寄った。
「はーい、笑って。」
里枝は、そう声をかけた。スマホを構えたが、モニターの中で、悠人は決して笑わず、彼女を見つめていた。
シャッターを押し、その顔がそのまま写真になった。
「里枝もそこん立ちないよ。撮っちゃるかい。」
言われるがままに花の手を取り、悠人と並んだが、彼女も自分の表情をどう取り繕えばいいのかはわからなかった。
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