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ある男|23−5|平野啓一郎

城戸からの報告で、彼女の心を最も激しく揺さぶったのは、一通り話し終えたあとの次のような一言だった。

「亡くなられた原誠さんは、里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に、初めて幸福を知ったのだと思います。彼はその間、本当に幸せだったでしょう。短い時間でしたが、それが、彼の人生のすべてだったと思います。」

城戸の報告書は、大変な労作で、どうして彼が、自分のためにこんなことまでしてくれるのか、里枝は今更ながら訝った。おまけに、メールや電話でも済みそうなものを、わざわざ会いに来てくれた。

しかし、この励ましに満ちた、力強い言葉を聴いた時、里枝は彼が、ただこのことを直接伝えたくて、来てくれたのだろうということを悟った。なぜそうなのかは、結局のところ、わからなかったが、それはもう詮索しないことにした。

悠人は、一時間ほど部屋に閉じ籠もっていた。里枝は、そろそろ様子を見に行ってみようかと思っていたが、その矢先に、二階から降りてくる跫音が聞こえた。

「──読んだ。」

そう言うと、悠人はぶっきらぼうに書類の束を母親に手渡した。

「もういいの?」

「うん。コピーしたから。」

「それで時間かかったのね。」

悠人は、無表情のまま立っていたが、そのまま黙って部屋に戻ろうとした。

「悠人、」

「……。」

「大丈夫?」

「別に、……お父さんが人殺したわけじゃないんでしょう?」

「そうね。」

「……かわいそう……だね。お父さん。」

「優しいね、悠人は。」

里枝は、息子のいたいけな表情に、目を赤くして口許を固く結んだ。

「お母さん、……ごめんね。」

「どうしてあなたが謝るの? ん?」

悠人は、立ったまま下を向くと、到頭、泣き出してしまった。しゃっくりで肩を震わせながら、腕で涙を拭って、必死でそれを堪えようとしていた。里枝も一緒に泣いた。ハンカチを貸してやろうとすると、悠人は掌で濡れた顔をこすって、真っ赤に腫れた目で母親を見た。

「苗字は、……それで結局、どうなるの? 原になるの?」

里枝は、努めて現実的なことを話そうとする彼に、笑顔で、

「原は名乗れないかな。……武本でいいんじゃない?」と言った。

悠人は、咳き込んだあと、小さく頷いた。

「お父さんのお墓、どうする?」

「どうしようかね。……遼とおじいちゃんと同じお墓に入ってもらおうか。」

「いいと思うよ、その方がみんな寂しくなくて。」

「悠人、……」

「何?」

「お母さんこそ、ごめんね、色々黙ってて。」

悠人は首を振って、気分を落ち着かせるように深呼吸をした。そして、真剣な顔で、「花ちゃんには言うの?」と訊いた。

「どう思う?」

「今言ってもわからないよ。」

「そうね。……」

「守ってあげないと、花ちゃんは。」

里枝は、また泣きそうになるのを堪えて、気丈な息子の目を見つめながら頷いた。大きくなったなと思った。

「辛かったら、悠人もお母さんに言ってよ。」

悠人は、小さく頷いて、

「お母さんも。……じゃあ、おやすみ。」と言った。

「おやすみなさい。また明日。」

リヴィングを出て行く息子の後ろ姿を見ながら、このあとの一晩をどう過ごすのだろうかと想像し、里枝は胸を詰まらせた。けれども、今はただ、そっとしておくことしか出来なかった。

独りになってから、彼女はダイニング・テーブルに肘をついて項垂れ、しばらく目を瞑っていた。

壁掛け時計が時を刻む音だけがしていた。

それから、顔を上げると、食器棚に飾られた父と遼の遺影を見つめ、家族四人の写真に目を遣った。

彼はもういない。そして、遺された二人の子供は随分と大きくなった。

その思い出と、そこから続くものだけで、残りの人生はもう十分なのではないか、と感じるほどに、自分にとっても、あの三年九ヶ月は幸福だったのだと、里枝は思った。

ー 了 ー


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