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『マチネの終わりに』第九章(7)

 洋子は、東日本大震災をジュネーヴで知った。すぐに日本支部のスタッフは固より、長崎の母親や東京の知人とも連絡を取ったが、直接の被害に遭った者はなかった。

 洋子の母親は、震災後、二月を経た頃から足繁く東北にボランティアに通った。洋子自身は、日本語の報道に偏りを感じて、生まれて初めて匿名でブログを立ち上げ、英語、フランス語、ドイツ語の新聞やテレビのニュースの中から、有益であると思われるものを選んで翻訳していった。著作権を侵害していることは知っていたが、非常時なので、クレームが来れば削除に応じるつもりでいた。

 誤情報は、更なる混乱の原因となるので、取捨選択は慎重に行ったつもりだったが、とりわけ原発関連の記事は多く引用され、激しい議論を巻き起こすこともあった。

 洋子のブログは、一月ほど経った頃には、一記事あたり数千人規模でシェアされるほど有名になっていた。震災後、幾つか出現した同様のサイトの中でも、特に参照件数が多かった《東日本大震災についての海外報道》というあのブログの管理人は、実は洋子だった。

 蒔野の安否も気になって、洋子はこの時にまた、彼の名前を検索している。彼だけでなく、彼の子供のことも、子供の母親のことも――つまりは早苗のことも――心配した。家族として、夫婦が助け合いながら子供を守り、この危機を切り抜けることを自然と祈っていた。早苗なら、何があっても蒔野と子供の安全を第一に考えるだろう。そう期待する自分を意外に感じつつ、しかし、当然のことのような気もした。ただ、早苗自身が精神的に保つかどうか気懸かりだった。

 蒔野が無事であることは、コンサートの決行を巡ってなされたバッシングを目にして知ることとなった。洋子は、恐らくは思い悩んだ末のことであろうその決断を、蒔野らしいと感じた。そして、その思いを理解し、共感し、彼を改めて尊敬した。

 震災後、東京で催されたコンサートを好意的に報ずる古巣のRFP通信の記事を紹介した際に、洋子はいつになく長いコメントを付して、日本で非難の対象になっている音楽家たちを擁護した。その具体例として、彼女は特に蒔野の横浜でのコンサートに言及した。

 蒔野は、木下音楽事務所のマネージャーに教えられてその記事を目にし、非常に勇気づけられていた。


第九章・マチネの終わりに/7=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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