見出し画像

自殺未遂から、なぜ一か月も立たず、カメラ量販店の店頭に戻れたのか

1999年5月のことです。
私はもうメンタルをやられ、桜上水のアパートで独り暮らしをすることが
無理になり、泣く泣く実家に戻ることにしました。
その相談のために実家に相談に行き、自分の人生がうまくいっていないことを泣きながら父、母に話しました。
そんな子どもは兄弟のなかで私だけでしょう。
明治大学を卒業して正社員の職に就けず、すでに数年が経過していました。

私は思い切り泣いて人生の絶望を嘆きました。

そんな私に対して、父がかけた言葉はこんな言葉でした。

「だから、俺の言うとおりにやらないから、こういうことになるんだ」

私はその言葉を聞いて、さらに絶望を深めました。

当時の印象でいうと、
「自殺しようと崖のうえに立つ自分に対して、
後ろから蹴っ飛ばすような言葉」でした。

私が東大を受験して落ちたとき、親父が私に対して言った言葉は
「人が10時間勉強するなら、おまえは20時間やれ」
ということでした。

親父は中卒であり、東大はおろか、大学受験はおろか、
ろくに受験勉強というものをやったことはないはずです。

そんな人が大上段から大義名分を話されても、聞き耳など持てるものではありません。

だから、その時点まで、親父の言葉に謙虚にしたがって行動しようなど、
考えたこともありませんでした。

私は涙ながらに親父の手を握り、懇願しました。

「そのセリフだけは何も良いものを生み出さないから、口にするのをやめてくれ」と。

さすがに親父は言い続けはしませんでした。

その数日ののち、母の友人がトラックを出してくれ、運転まで引き受けてくれて、
父と母と自分と、
身内のマンパワーで桜上水のアパートを引き払い、
東京都大田区の実家へと戻ってきたのでした。

明治を卒業して定職に就かない、ということで私を実家から追い出した父は、
その後数か月で「実家に戻ってこないか?」と勝手なことを言い、
そして数年後、実際に実家に戻ってみると、
数日で
「いつまでぼけっと暮らしているんだ」
という言葉を私にかけてきました。

いまとなっては微笑ましい、思い出話しです。

そして、私は「給料はいいがノルマは厳しい」と聞いていた
京セラの販売員採用に応募しました。

言わば出戻りです。

さくらやカメラ館でペンタックス販売員としての実績があったので、
私はめでたく採用となり、ヨドバシカメラ横浜駅前店での勤務をスタートしたのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?