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もっと気楽に書く自分と付き合っていく【エッセイ】

 エッセイや小説を書いていると、途中で「これって面白い?」と、自分自身が書いているものが分からなくなってくることがある。いわゆる、考え過ぎというやつだ。

 この考え過ぎについては、はっきりと分かっていることがある。考え過ぎると、筆が止まってしまうのだ。
 この一ヶ月間、私はnoteに一日一投稿している。考えてばかりいると、書く時間がなくなってしまう。なので、あまり深く考えずに、とりあえず最後まで書き切っている。それを毎日続けていくうちに、気が付いたのだ。書いている最中に考え過ぎない方が、断然書ききれる。

 考え過ぎてしまうのは、なぜなのだろう。自分の考えやアイデアを表現するのは、楽しいけれど、勇気がいることでもある。反応が全くなかったら寂しいな。批判的なコメントがついたら、どうしよう。そんな風に思いを巡らすことは、人から見た自分を気にし過ぎているのかもしれない。
 日本人は「人の目を気にする傾向が強い」と聞いたことがある。それは調和を重んじる社会の形成に貢献する良い面だと思う。問題は、私が文章を書いている最中にも、その意識を文章の中に持ち込んでいることかもしれない。

 文章を書いている最中に、周りの目を気にし過ぎるとはどういうことだろう。私たちは、これまで社会に出て働き、旅行をしたり、恋愛をしたり、子供を産み育てたり、本や映画を楽しんだり、人と話をしたりと経験を積んできている。書き手の経験が、それぞれの面白さ、個性に繋がっている。
 ところが考え過ぎ、つまり文章を書いている最中に周りの目を気にし過ぎているときは、それらの経験からくる個性を周りに合わせて削ったり、自分の中にないものを付け加えているのではないだろうか。そんなことをしているうちに、どんどん個人の面白さの基準が世の中の流行りとか多数派の方向へと動いてしまう。だから、私の脳は「面白いのか?」とますます混乱するのではないかと思ったのだ。そして文章自体も、個性ある内容からより一般的な内容になり、本当につまらなくなってしまうのかもしれない。

 例えば私の記事も、文章の構成や文章の統一性、主張、語彙力などがイマイチでも、私の素直な気持ちや分析力の発揮など、良い面が出ている記事は読んで下さる方からスキやコメントを頂いているように思う。
 結局、何が言いたいのかというと、書いている間だけでも、自分の中の面白さや伝えたいことを信じていいのではないかということだ。 

 そういうわけで自分が変なことを書いていないかなぁと文章を見直すのは、全てを書きあげてからにしている。それも厳し過ぎないように。厳しすぎると、自分の書いたものに絶望してしまうから。笑
 まずは、やめたくてもやめられないというレベルにまで、書くことをスキになりたい。変な言い方だけど、大切に思うからこそ、もっと気楽に自分の文章と付き合っていきたいのだ。

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