おおきい話、ちいさい話
SNSのこと
きっかけは些細なことだった。
過不足ない暮らしの中で、どんどん表現力が貧しくなっていく。
書く仕事をしているのに、このままではまずい。
たしかにこの半年くらい本を全然読めていなかったし、アウトプット量も急に増えたから、そんなにすいすい書けるわけはないだろう。
読みきれないほどの本を買っては読み、足りない足りないとtwitterのタイムラインをスクロールする指が止まらず、一日中言葉をじゃみじゃみと浴びていた。
昨日後輩の女の子に久しぶりに会った。
本は買っても許されている気がする、いくら買っても悪いことはないしと思ってしまう、とわたしが言い訳を並べていると、文章を書いてるから本は読んだ方がいいですよとその子は言った。
文章が細ってしまうから、と。
文章が細る。その言葉を、しばらく忘れていた。たしかにそうだ。
でも、もう遅いかもしれない、と思った。
現に今のわたしは、ペットボトルの溝に残ったほんの少しの水滴を頼りに、喉を潤わせようと躍起になっている。
飲んでも飲んでも喉は乾くばかりで、どうしたら満たされるのか自分でも分からない。
要因を特定しようと一日の過ごし方を振り返ると、SNSを見ていることが真っ先に浮かぶ。
実際、ここ数ヶ月のあいだにやめようかと思うことが何度かあった。
SNSといっても友人とつながっていたInstagramは数年前にアカウントを消してしまったし、同年代がほぼ使っていないFacebookを開くこともほとんどない。つまりはTwitterだった。
Twitterも実は何度かアカウントを消している。前回消したのも今と同じくらいのフォロー数、フォロワー数くらいだったはずだ。
知らない人よりも、知り合いの投稿を見るのがしんどくなってしまう。
誰が、とか内容が、ではなく、コンビニの新作のおやつが出るのをえんえんと追いかけているような、終わりのないループから抜け出せない感覚がこわかった。
今まではアカウントを消してしまっていたけれど、ひとまず以前よりは見ないようにしようとホーム画面のアイコンの位置を変えた。
言葉を浴びすぎることで、薄めすぎたカルピスのようにどんどん言葉の輪郭がぼやけるのだと気づく。
お金は減らない代わりに、確実に自分自身の何かがすり減るようになっていた。
わたしに必要なのは、言葉じゃなかった。
言葉のない、静かな視界だ。
水を吸いすぎたスポンジから水滴がしたたる状態にいたのだろう。
もう入らない場所にぎゅうぎゅうと言葉を押し込めても、大切にすべきことまで垂れ流してしまっていたかもしれなかった。
言葉を増やすのは、言葉とは限らない。
スマホの画面から離れた目の前の景色から、生まれる言葉がある。頭を空っぽにしたときに浮かぶ言葉がある。
5,6年前にはそれができていたように思う。誰かの言葉を探そうとせず、そこにあるものをただ受け止めることを無意識にしていたからだ。
わたしにも、良い文章が書けるだろうか。
寂しいけれど、まだ間に合うと信じている。
六本木のこと
久しぶりに六本木へ行った。と言っても遠くない距離だし、行こうと思えばいつでも行ける。
映画を観ようと思って、いちばん近い渋谷の映画館で座席を予約しようとしたら、かなり埋まっていた。
一方六本木はかなり空いていて、何となくぎゅうぎゅうで観るよりは安心だなと思いチケットを購入した。
ぎりぎりに映画館へ着くと、わたしの前に大学生くらいの男の子二人組が歩いていて、検温をし終えた後ついていくかたちで同じ方へ向かう。
大学生が座る位置のアルファベットを思わず二度目する。ひと席ずつ空いていると思いきや、その男子大学生の隣がわたしの座席番号だった。
結果的にぎゅうぎゅうで観ることになってしまった。
さらに、映画が始まるころまでずっとその二人が会話をしていたので嫌な予感がしていたが、終始ツッコミを入れたり感想を言い合ったりしていた。
わたしは悔しくて、ずっとぽりぽりと無心でポップコーンを食べていた。ポップコーンの音で結界を張っている気持ちになれたからだ。
ところがその結界は意味をなさず、終わりに近づくいちばん良いシーンで隣の子がスマホをちらちらと見ていた。
せっかく良い映画だったからこそ、最適なコンディションで観られなかったことが、なお悔しい。
ふと、fuzkueのことを思い出す。
これが実現されているのがfuzkueなんだよな、と。
阿久津さんにBONUS TRACKを辞める最後の日、ちゃんとご挨拶ができなかったのがまだ心残りだ。
本当に遠くないうちに行こう、と思った。
知らない人と話すこと
コンビニの店員さんや病院の受付の人、何か用があって行くのに、知らない人に自分から話しかけるのが小さいころから苦手だ。
母には何度も「自分で聞いてきたら?」とうながされたが、怖気付いてだんまりしてしまう。結局いつも代わりに用件を聞いてもらっていた。
数日前、保険証のコピーを取って郵便物を出さなければいけないと外に出たとき、のりを持ってくるのをすっかり忘れていた。
家に戻るのもわざわざ買うのもなんだかな、と逡巡していると、一緒にいた恋人が「コンビニで貸してくれるよ」と教えてくれる。
そっか!と言いながら、いざ借りようと思うと切手を買うわけじゃないし...と小さくなってしまう。
への字に曲がったまゆげを見てか、恋人が「代わりに言おうか」と助け舟を出してくれ、その間うろついていた際に見つけたぷっちょを握りしめながらレジへ向かうと、カウンターの前にいる恋人が楽しそうに店員さんと話していた。
どうしたんだろう、と思いながらコンビニを出ると、恋人は預けていた封筒を差し出しながら「のり貼ってもらうだけで盛り上がってたのうけるな」と笑った。
びっくりした。のりを貼ってもらうだけで盛り上がっていたのか。
羨ましすぎる。それは才能だよ、と思った。
圧倒されすぎて言うタイミングを無くし、泳いだ視界から見つけたポストに手紙を投函した。
こういうことは今回だけではなく、本当によく起こった。
恋人が知らない人に話しかけるとき、気づけば親しかったかのようにけらけらと一緒に笑っている。
同じ場に居合わせるときのわたしは、地蔵のように静かに微笑んでいる。
微笑んで立っているのも悪くはないけど、地蔵だっておしゃべりしたいときはあるのだ。
羨ましいと言ってばかりでは進展もない。今度こそ自分で必要なときは話しかけに行こう、とコンビニを背にしながら誓った。
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