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水中世界

水中でぶくぶくと沈む。隔たりある世界。心地よい。私の周りを水の膜が包んで、何者からも脅かされない、ような気がする。安心で満ち足りた世界。くぐもった音が私を守ってくれるように感じる。ひんやりした液体も、私の内の熱を下げてくれる。穏やかで温度の低い、波のない世界。生と死が同一で、愛すらも同一の、完全無欠の、私の世界。

そっと目を閉じたなら、私も水と溶け合って元素に還るだろうか。


体温の低い、無味無臭の彼に肌を寄せていると、水の中にいる、みたいだ。言葉を発する必要はない。考えなくてよい。ただ、彼の落ち着いた体温に身を寄せ、匂いのしない体に鼻をくぐらせ、味のしない体をなぞる。体温の高い、波の高低する私が、静かに、凪いでいく。ここでこのまま止まっていられたら、永遠の塵となれる、ような満ち足りた感覚。

時折、信号を送る。応答を求めてみる。雑音のない彼の鼓動は次第に高まって、反対に私の鼓動は凪いでいく。落ち着いたトーンで、規則的に波打つこの体が私は好ましい。いつだって、ほんとうはこんな風にいたいのだ、と本心を知る。彼と私の、中と外が、交わっていく。替わっていく。

だけど私は知っている。この世界は、止まったままでは死んでしまう。足を動かし、声を出し、表情を変えて表現していかなければ、私は埋没してしまう、ということ。動いていなければ死してしまうと悟ったのはいつだっただろうか。

時が来れば私は彼から身を離す。体温の高い、波のある自分を取り戻し、私はまた、生の世界へと還る、戻ってくる。くぐもった水中から光差す空中へと顔を出す。再び私は大地を踏みしめ、現実を歩んでいく。

またいつか彼のもとで埋もれたい、という欲求を体の下に敷いたまま、笑顔というペルソナを貼り付けて、世界への好奇心を取り戻すのだ。いつかこの体温から解放される、そのときまで。



なんていう発想はもう手放した。私はこの先、水をまとったまま生きていく。一人でも、誰かといても、繭の中から出ることをせずに、ただ時が経つのを見つめている。


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