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福森伸『ありのままがあるところ』を読んで

私は今回こう読んだよって話

私にはずっと「『障がい者』と『健常者』は”対等”であるべきだ。しかしそれはまだ実現されていない。」という意識がありました。

『ありのままがあるところ』を書いたしょうぶ学園(詳しくは文章の最後にリンクがあります。)施設長の福森伸さんも、福祉に携わり始めた当初は同じような考えを持っていたといいます。

障がい者だってきっと社会と対等になれるはずだ。当時20代の私は「だって障がい者も健常者も変わらない、同じ人間だろ?」という思いを強く持っていた。(p.18)

はたして、「障がい者」と「健常者」は”対等”であるべきでしょうか。そうだとしたら、一体何を持って”対等”とみなすのでしょうか。みなさんはどう思いますか?

「健常者」は通常、できないことを克服することに喜びを覚える、と福森さんはいいます。確かに私たちは昨日よりも今日、できることが一つ増えたらうれしい。他者に対しても、たとえば子どもがはいはいから二足歩行へと発達の歩みを進めるとうれしいと感じます。

福祉の現場でも、支援者である健常者は「障がい者もそうであるに違いない。」という思い込みを持って障がい者に接することが多いのが現状のようです。

まっすぐに縫えないならまっすぐに縫えるようになることが、器をうまく作れないなら型通りに作れるようになることが、彼らの幸せであるに違いない、だから支援者はそれができるようになるために支援するのが仕事だ、という考え方です。

しかし、これは「健常者」の勝手な”論理”だとか”常識”だとかを「障がい者」に押しつけようとしているに過ぎないのではないでしょうか。

福森さんも妻の順子さんも、何十年という時間を彼らと共有する中で、問いを抱え、葛藤し、次第にそのことに気づいていきます。

順子さんは利用者が作った布と刺繍の塊を見て

「私がいる」と感じた(p.30)

といいます。福森さんは(アメリカで暮らしていたときの言いたいことが伝わらないという)

拠り所のない気持ちがしょうぶ学園の利用者とリンクする気がした(p.70)

のだそうです。

お二人とも、利用者との違いを認めた上で、利用者の立場で考え、寄り添い、想像力を働かせています。あのときの自分が彼らと重なるのではないか、と自分に置き換えて理解しようとしているのです。

私はお二人のこの姿勢に救われるような思いがしました。順子さんが

丸まった布を発見したとき、かつての自分をやっと認めてもらったような感覚を得た(p.30)

という文を読んで私の目には涙がこぼれました。それは利用者と順子さんの両方に対して「よかったね。」という気持ちが溢れたからです。

このことこそがいま求められている、と私は感じます。当事者の立場に立って、大事なことが見過ごされていないか問い直すことが必要なのではないでしょうか。

こちらの考えに相手を従わせるのではなく、彼らに私たちが合わせるべきではないか。(p.48)
「がんばればきっといいことがあるよ」と言うときの「いいこと」とは、誰にとってなのか?(p.48)

福森さんの本を読んでいると、私が立てた「障がい者」と「健常者」は”対等”であるべきだろうか、という問いもまた健常者の論理から生まれたもののように思えます。

対等であることは、問われるべきことではなく、基本に据えるべきことなのではないでしょうか。それを前提とし、起点として物事を考え、日々実践していく中で、福森さんのテーマは次第に変わっていったといいます。

人間とはどういう志向で生きているのか?が問題で、しょうぶ学園のテーマは次第に障がいではなくなっていった。(p.87)

冒頭の、「『障がい者』と『健常者』は”対等”であるべきだ。しかしそれは実現されていない。」という意識を私が持つに至った具体的なエピソードは複数あります。

いずれも私にとって大きな経験であり、何度もそのことについて言語化・文章化を試みては悔しさと共に傷ついては諦め、諦めてはまた挑戦を繰り返してきました。

今回もそれについて、直接的に私の言葉で説明すると様々な軋轢を生むのが怖いので、福森さんの言葉を引用して補足させていただきます。

障がい者も社会を担う一員なのだから働くことが望ましい。健常者と同じく、給料を得る生活をすれば地域社会に貢献できるし、自立もできるはずだ。今の日本ではそういう考えのもと就労支援が行われている。就業率が上がれば自立は促され、雇用主は評価されと政策はいい方向に進んでいると思うかもしれない。そこで気になるのは、誰も「本人はそれで幸福になったのか?」を話さないことだ。(p.106-107)

ではどうしたらいいのか?その答えの一つがしょうぶ学園で行われている

利用者のものづくりの無作為さと健常者の捨てられない作為との組み合わせ(p.138)

であるマッチングです。もちろん答えはこれ一つではないでしょう。

私たちはいま一度、当事者の目線に立ち、その幸せとは何か、働くとは、自立とは何か、問い直す必要があるのではないでしょうか。それぞれの立場で、目の前にいる利用者や支援を必要としている人にとって、幸福とは何なのか問い直す時期に来ているのではないでしょうか。彼らが本当に必要としているものは何なのでしょうか。

福祉に携わる人の多くは、おそらく原体験を持っていることと思います。それは愛する子どものことであったり、親のことであったり、配偶者であったり、大切な人に関わるものであった人も少なくないでしょう。

いま一度その原体験に立ち返り、いまのままで当人は本当に幸せだろうか、と問い直すことを始めたいです。そして自分が同じ立場に立ったなら幸せだろうか、と問いたいのです。

福森さんはこの本の終盤でこう書いています。

私は彼らのことを本当にはわかっていない。わかっていないから、『これが正しい』ということも言えない。だからもっともっと彼らのことを知りたいと思う。

この文章は人の血の通った福祉のまちであると私が感じる宮崎県延岡市(具体的には下記noteに書きました。)に住む私が感じていることを書いたもので、今後の私の活動で大切な根幹となっていくだろうことを予感して書きました。

この『ありのままがあるところ』を読み合うことで、延岡市にもさらに素敵な変化が生まれていく予感がしています。

のべおか読書会「新春読書会」へのお誘い

というわけで、のべおか読書会で新春読書会を行います。この文章に書いたことは、私がこの本を読んで感じ考えた一つの大事な視点ですが、ほかにも様々な角度からこの本は読めると思います。だから素晴らしいんです。

幸せってなんだろう?

働くってなんだ?

自立とは?

福祉ってなんなんだ?

そもそも人間とは?

表紙かわいいな!

なんか気になる!

どれか一つでも当てはまったり当てはまらなかったりする方、どなたでもどうぞ。詳細はこちらです。

あなたのご参加お待ちしています~!

「しょうぶ学園」についてはこちら


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