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今後は「教えてもらう」のが難しくなっていく?「教えてもらう」と「学ぶ」の本質的な違い

今朝は、「学び」に関する小話をご紹介しようかと思います。本質的な違いも何も、受動的か能動的かでしょ、という話もあると思いますが、語源から少し考えたいと思います。

「教える」の語源

まず、「教える」の語源は何からきているかというと「をし」から来ています。この「をし」というのは、「人のことを愛おしく思う気持ち」ですね。つまり「人を愛すること」です。そこから、「大切やことを人々に分け与える」→「知識や知恵を分け与える」→「教える」という意味を持つようになったみたいです。

ここで大切なのは、教える行為は、その人のことを大切に思っているかどうかで決まるという点ですね。あくまで教える側の裁量である点が非常に興味深いです。


「学ぶ」の語源

次に「学ぶ」ですが、これは「真似る」から来ているということをご存知の方も多いかと思います。まずは真似をしてみることが学びに繋がるということですね。ここで「教える」と違うのは、あくまで行動の主体は自分であるという点です。自分から真似をしようとしないと、学ぶことができません。


ここから分かることは、学ぶことは自分1人でも始めることができるが、教えてもらうには、まずはその行動の対象者から「をし」愛してもらう、大切に思ってもらう必要があるということですね。なので本質的には、「教えてもらって当たり前」というのは変な話で、教える側が教えたくないと思えばそこでストップしてしまうわけです。


「いやいや、それはおかしい。大学だって我々は学費を払ってるんだから、教えてもらって当然でしょ。対価としてのサービスを受けるのは当然である。」という主張があると思いますが、これは正解だと思います。学費の対価として、サービスとしての教育を受けるのは正当な主張だと思います。


教育がサービス化したのはいつか

ではそもそも、教育がサービス化したのはいつでしょうか?私が調べた限りでは、福澤諭吉です。

「教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るになんの不都合がある、かまうことはないから公然価(あたい)を極(き)めて取るがよい」

というのが福澤諭吉の考えで、「授業料」という言葉を作ったのも福澤諭吉だと、慶應義塾大学のサイトには記されています。
https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/encyclopedia/12.html

じゃあ、授業料という言葉が生まれる前の先生はどうしていたのかというと、これも慶應義塾大学のサイトに記してありました。

「生徒が入学の際に束脩(そくしゅう)としてなにがしかの金子を納めるほか、盆暮の年に2度ぐらい、それぞれの生徒の分に応じてお金なり品物なりを熨斗(のし)をつけて先生に差し上げるというのが、一般の習慣であった。」

つまり、教育というサービスへの対価というよりは、感謝の印というようなニュアンスだったそうです。授業料の考え(=教育のサービス化)が比較的最近確立されたことが分かるかと思います。


教えてもらうことが貴重な時代に

現代においては、お金を払って教えてもらう環境だけではなく、学ぶ環境が急激に整ってきました。学ぶ環境が整ってきたということは、自らの意思でどれだけでも学べるということですから、「教えてもらう」ことの価値がどんどん上がっていくと、僕は予想しています。

これまでは、お金を払えば教えてもらえていたものが、本当に重要な、本質的な部分は、お金を払っても、もしかしたら教えてもらえなくなるかもしれません。さらに、教えてもらうことにお金をかけれないようになるかもしれません。そんな時にどうすれば、自分が教えを乞いたい人から「教えてもらう」ことができるのか。

教えるの語源「をし」の重要さが分かるかと思います。教えてあげたいと思ってもらう人になることが大切ということですね。ではどうすれば教えてあげたいと思ってもらう人になれるのか?というのは、また後日にでも書いてみようと思います。

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