過去との対峙

過去の私は、INFJだったのか。
もしかしたら違うタイプだったのかも。

そんな疑問を持ってから、やっぱり止まらなくなる私の思考。
過去の私、という点で、まるで自分の原点を探す旅のよう。

過去の私といっても、実は、1年とちょっと前、それよりも前の自分こと。
それは、この1年とちょっと前の時期に、私はうつの経験して、価値観ががらりと変わったから。
(私が初めてMBTI診断をしたのもこれ以降で、INFJ以外出てこない。自分でも、かなり確信を持ってる)

とはいえ、今となってはかつての自分がどうだったか、本当に思い出せなくて。

でも、自分の原点を探す旅の過程で、自分の気持ちを言語化したり、感情の動きを認識していって、さらに新しい知見につながるから面白い。
こうやって私は、思考のドロ沼に嵌っていくのである。。。

私の家庭は、ごくごく一般的な家庭だと思う。
ちゃんと愛してもらえていたし、家族仲も良好といえると思う。
けれど、そう、ごく普通の家庭だから、基本的に、
“普通”とか“常識”とか、
そんな概念で測られていた。
それが普通だし、至極当然で、必要なこと。
家庭に限らず、学校もそう。

それで、未だ人格の形成されていない私は、当然のように、
自分の感覚と合わないことは、周りが正しいんだ。
って思っていた。

実際、周りの価値観を正解だと考えて生きていくことに、大きな不都合はなく。
親や先生が教えることが正しいと信じて行動し、
周りの子が楽しいと言ってるもので楽しむ。
これをちゃんとしていれば、まず問題なく過ごせた。

それは同様に、
自分の感覚を全く信用していない、
ということでもあって、
当時の私は、ほとんど自覚せぬまま、自分の感じたこと、考えたことのほとんどを否定していた。たぶん。
ホントのほんとに自覚がなくて、それが当たり前すぎて、
今さら気づいた時には、とっくに感情の泉は枯れ果てていて、
ちょっとやそっとでは、何の感情も湧き上がらなくなっていた。
(これを自覚したのはごく最近の話)

これが変わるきっかけになったのは、
何度か小出ししているうつの経験と、
大学、という環境にも要因があると思う。

時系列的に、先に大学の話をする。
それまでの学校経験との大きな違いは、
正解をなぞればいい小,中,高校と、
正解を追究する大学、
と、いうところ。

この大学という場所で、
・表面的な事実を多角的に切り取ること
→たった一つの正解が、見方によって如何様にも化けること
・出来事の裏にある本質を追究すること
→表面的な事実で判断することがいかに早計か
を学んだのである。

こういうところで、内向直観人間には、小中高の勉強より、大学の学問の方が性に合ってるのかもしれないなぁ、とつくづく思う。違ったらごめんなさい。

私の場合、新しい知見を1得られれば、
そこから更に10を発見し、
それらの根底にある真理に到達して、
その真理を応用すれば、
より高次の理想社会を脳内に作れるだけでなく、
実生活でも大いに活用させられるので、
(専門用語や専門知識は、右から左へ流れてしまうけれど笑)
新しい知見1を得られただけで、
学費分の学びを得たなぁと感じるのです。
(大学に行く価値がなんてない、かどうかは
当人の取組み次第で如何様にでもできる。
ちゃんと学べば学費以上の知見を得られる。)

ここまで語っておいてあれだけど、
学部とか、分野ごとに程度の差はあるかも。

閑話休題

そんな感じで、日頃から、表面的な事実のさらに奥深くの、本質を意識する習慣がついた私。
ここで私が犯した大きなミスは、
他の人も当然、自分と同じかそれ以上に深く考えているんだ、
という勘違いをしたこと。

以前から私には、
周囲を過大に評価する、という傾向があったのだと思う。
自分を卑下する、とはすこし違っていて、劣等感とか、過剰な謙遜とかで表現がされている時は、ピンと来なかったのだけれど。
これは物心ついた時からの、周りが正しいと考える癖の後遺症。

結論から言うと、
この、周囲の人間が正しいという信仰が、
うつの経験によって、私の中で、
ガラガラと音を立てて崩れたのです。

これまで、うつの経験と言ってきたのだけど、
原因たるサークルでは、実は私が病む前から、何人も病んだ人がいて、
その人たちは、引き受けた役割を途中で投げ出してまで、サークルから逃げ出したわけ。
私は、別に本人たちの気持ちを聞いたわけではないけれど、
のっぴきならない事情があるんだろうなぁ
くらいには思ってた。
そして、周りの人もそれを察しているんだと、勝手に思ってた。

現実には、全くもってそんなことはなく、、、
後に、自分がその立ち位置に立って、肌身で実感して、

そして、
私、人生20年目にして、初めて周りの人間の認識を疑った。
もしかして本当に、自分たちのことしか考えてないの?
もしかして本当に、何も考えず、何も想像せず、
表面的なだけの正解を振りかざして、人を傷つけておいて、そのことにすら気づいてないの? と。

酷い言い草で申し訳ないです...。
私自身もまだ視野が狭くて、当時はこの人たちの価値観を認められなかったのです。

MBTIを学んでから、
世の中にはそういう人もいて、
私にはない長所や適性があるのだから、
異なる価値観として尊重しよう、
って、今では思えています。

それで、大きく話を戻して、過去の自分の最終的な結論だけど、
未だに、しっくりくる考えに至っていません。
ここまで語っておいてなんやねん。
違うタイプだったのかもしれないし、
外面はともかく、自分の根っこは元からINFJだった可能性もある気がする。

さらに、うつを経てから、
自分を知って、周りも知って、そこには多様な価値観があって、
一概にINFJだと言いきれないような、複雑な思考をする人間になった気もする。

いずれにせよ、
過去との対峙って、意外に発見が多い。
自分のことも周りのことも、たくさんの反省や後悔を思い浮かべては、その原因の追究や違う視点から観察し直す、
そしたら、新しい知見をいくつも得られる。
そこから10の発見をして...
(以下略、上記参照)
と、思考回路をすれば、本当に過去の経験を未来に活かせる。

これが、真の意味の、歴史から学ぶということではないだろうか。

どんなに苦しい経験をしたとしても、
その経験が より良い未来の礎になるのなら、
その苦しみにも意味があったということ。
けれど、何もしなければ、過去はただの過去として霧散する。

それを左右するのは、現在の当事者たちが、真剣に過去と対峙するかどうか。
ただ懐古するだけでは、何も教訓を得られない。

私は、これまでの痛みを、絶対に無駄にはしたくない。
この傷がなければ、今の自分はなかったと言えるように、
そしていつかは、この痛みすら愛おしいと思えるように、

これまで間違えた分だけ、いやそれ以上に、
未来をより良く生きていく。

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