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ガザはイスラエルにつくられた 小田切拓さんに聞く「教科書には載せられないパレスチナの話」

20年間で70回以上、パレスチナ・イスラエルを訪問しているジャーナリストの小田切拓さんに聞く連載。今回のテーマはガザだ。2023年10月7日のガザ蜂起からまもなく1年が経つ。2005年以前からガザに注目して、ガザの変化と破壊の様をリポートしてきた小田切さんにその変化から、イスラエルがガザで何をしているのかを聞く。ガザがわかればパレスチナ・イスラエル紛争が見えてくるーー。(8600字)




平井 パレスチナ問題はある程度、歴史的な前提知識が必要なので前置きの超簡潔に説明をしてもらえませんか。私もパレスチナについては毎回、あやふやになるのでメモを作ったりしているんですよね。

イスラエルの左がガザ地区、右が西岸地区(ヨルダン川西岸地区)。
西岸地区の中央左にエルサレムがある。

パレスチナ・イスラエル紛争のおさらい

小田切 厳しい注文だなあ。
  第一次世界大戦後のユダヤ人のパレスチナ移住は端折らせてもらって、イスラエル建国からお話しますね。
 1948年5月14日にイスラエルが建国されることになりますが、その直後に始まった第一次中東戦争が起こります。この結果、イスラエルが、パレスチナ地域の約80%の面積を領有することになりました。500以上のアラブ人の村や町が破壊され、当時のパレスチナ人口の半数以上の75万人が、住んでいた土地を追われ難民になった。これをパレスチナ人は、ナクバ(厄災、破局、大惨事)と呼んでいます。
 すごい面積割合ですよね。で、イスラエル領以外となったのが東側に存在する(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸地区と、西の端に存在するガザ地区で、パレスチナ地域の約20%に当たります。ちなみに聖地エルサレムは、西岸地区につながるエリアが東エルサレム。イスラエルになった側が西エルサレムとなりました。1980年にイスラエルが一方的に東エルサレムの併合を宣言し、自国領として統治していますが、国際社会はそれを承認していません。

 現在は西岸地区はファタハが「統治」し、ガザはハマスが「実行支配」しているとされますが、いわゆる自治の実態は、対人行政業務の遂行に近い。イスラエルは、ガザ地区における経済封鎖に象徴されるように、パレスチナ人に自由な経済活動を行わせません。そのため自治の財源は主に援助となって、パレスチナ人ではなく、国際社会がその財政政策を主導しています。G7諸国は全て、パレスチナの独立を承認していません。逆にイスラエルに対しては、パレスチナ人の使用する国境の管理や、(東エルサレムを含む)西岸地区へのユダヤ人の移住まで黙認している状況です。
 
 ガザ地区は、イスラエルによって土地を追われたパレスチナ人を収用し、その弱体化が図られてきた場所といえます。大きさは東京23区の60%程度であり、鹿児島県の種子島程度の小さな場所で、人口の約8割が難民の子孫となっています。ここでイスラエルは大規模な軍事力の行使を繰り返しており、非武装の一般市民が数多く犠牲となってきました。2023年10月7日からは、(もともと難民が殆どの)地区住民全体が、避難民化するほどの規模で遂行されました。パレスチナ人の死者は4万人を超えています。

平井 ありがとうございます。
 
  7月末にユダヤ系米国人研究者、サラ・ロイの『なぜガザなのか パレスチナの分断、孤立化、反開発』(青土社)という本の翻訳書が出版されましたが、小田切さんはこの本の第一章「反開発の完了 ガザ地区は生存不可能にする」の翻訳者の一人であります。他には早尾貴教さん、岡真理さんも翻訳者でみなさん解説も寄せています。ですが、小田切さんの解説はサラ・ロイの本論並のボリュームがあってビビりました。

 この本を5回くらい読めば相当な博識になりますが、かなり専門的な内容ですよね。こちら「ゴーストマガジン」ではガザ地区について、「わかりにくい問題をわかりやすく聞ければ」と思っています。いくつか質問させてください。

小田切 どうぞ。なるべくかみ砕いて説明しますね。

ガザ市とガザ地区はちがう


平井 今現在のガザはどうしてできたのですか?

小田切 今の地区の境界線は、第一次中東戦争の結果として引かれました。ただ1967年までは、エジプトが統治していたので、四方が塞がれた場所という恰好ではなく、エジプトには自由に近い形で入れました。1948年以前は境界線もありませんでしたから、ガザ地区住民という意識もないか、希薄だったと予想されます。ガザ市=ガザ地区と思われがちですが、ガザ市は地区内の都市です。数千年の歴史があり、聖書の中に登場するユダヤ人サムソンが、殺害されたのもガザ市です。ガザ地区南部のラファには、アレキサンダー大王も訪れています。Wikipediaなどで調べてみてください。


  イスラエルが海上封鎖しているので、ガザの漁民は沖合には出られない。上のスズキは浜辺付近で穫れた。良い魚はなかなか手に入りにくくなった。
(2018年、本記事中の写真撮影/小田切拓)

平井 1967年まではエジプトが統治していたとおっしゃいましたが、以後はイスラエルになったと。

小田切 1967年の第三次中東戦争の結果、ガザ地区(西岸地区、東エルサレムも)は、エジプトからイスラエルによる統治下に置かれるようになったんです。戦争の結果の一時的統治ということで、国際社会は「占領地」と呼び始めました。この時から占領地では、住民の生活や、他国や他地域への移動に制約が加えられ始めますが、ガザ地区への圧力は、著しく過酷なものでした。イスラエルにとっての「ガザ地区の位置付け」が、こうした事態をもたらしました。
 シオニズム(ユダヤ主義)とは、パレスチナ地域の全体/大部分を自国領にすることを目指していますが、イスラエルからすれば1967年以降は、パレスチナ地域全体(イスラエル、ガザ地区、西岸地区、エルサレム)が、支配下に入ったわけです。このうちエルサレムは「絶対に手放さない場所」に位置付けられました。水源があり土地も肥沃な西岸地区は、そのできるだけ多くを自国領とする「領有候補地」に。

平井 ヨルダン川に沿っているわけですもんね。ガザは地中海だけど。

小田切 それで西岸には、ユダヤ人がどんどん移住し、既成事実を積み上げていくことになります。第一段階が1948年だとすると、パレスチナ人からの土地の収奪、1967年から第二段階に入ったわけです。
 一方でガザ地区は、すでに土地を奪った後の「要処分物」に当たります。その引き取り手を作り出すまで、時期によって色々、「有効活用」の方法が模索されてきました。

平井 「有効活用」っていうのも。イスラエル人目線でしかないですね。

小田切 ガザ地区住民は、イスラエルに対して特に強い抵抗意識を持っていました。イスラエルはそれを抑え込むことで、パレスチナ人自体の士気を落とそうともしました。「Normalization」(ノーマライゼーション)という表現が使われますが、ガザ地区住民を、弱体化させ、従順にし、その後に土地ごと「処分」することが常に意識されてきました。ガザ地区は、長い時間を経て現在のようになったというより、「要処理地」としての計画通りに、計画以上に追い込まれていった、というべきです。

平井 計画通り、ですか。

2005年まではガザにはユダヤ人入植地が存在した。上の写真はその名残。

シャロンが主導してきたガザ監獄化

小田切  こうしたイスラエルの統治政策を主導してきたのがアリエル・シャロンです。元々著名な軍人で、2001年から、脳卒中で倒れて意識不明状態になる2006年1月まで、首相を務めていました。

平井 もう亡くなっていますね。2014年かな。

小田切 そうですね。第三次中東戦争後に軍の南部司令官でとして、シャロンはガザをどう統治するかの土台を作りました。その後、軍人から政治家に転身し、閣僚として、西岸へのユダヤ人の移住(入植)計画も主導しました。 
 ガザ地区にも入植地を作りましたが、西岸地区のものとは性格が異なります。さっきも話したように、ガザ地区住民を弱体化させ、従順にしようとするための装置として利用したのです。まず南北40kmほどのガザ地区に、北から南に入植地を点在させ、そこに向けて東側のイスラエル領から道路を通しました。これを利用すれば、ガザ地区を5~10kmごとに分断してコントロールできるのです。入植地へのアクセスを確保した上で、その「治安維持」が必要不可欠だというわけです。入植者の安全のために、軍隊も常駐させました。


左がガザ地区。道路(水路)がガザ地区を分断している。青い三角はイスラエル人入植地。
出典:passia.com


平井 難民キャンプに対しても、かなり強い圧力をかけたとか。

小田切 そうです。反イスラエル勢力は難民キャンプを拠点にしてきましたから。シャロンはそうした勢力を、個々人レベルで潰していきました。兵士には、例えば、家の天井の高さが変われば、「抵抗勢力を隠す」ために家が変造された可能性がある。家や畑の境界に植えられていたサボテンの様子や、木の枝などの変化は、それを敵方が「合図に使っている」と考え、兵士たちに特に注視させました。

平井 すさまじい監視ですね。

旧入植地に、援助金で建設された高層住宅。家屋を破壊された住民向けだ(2018年)。

ガザ住民を徹底監視


小田切
 そういう場所は付近をパレスチナ・ゲリラが通る可能性も高くなります。キャンプの中には解体され、住民がシナイ半島(67年以降10年余り、シナイ半島はイスラエルが占領していた)に移管された箇所もありました。

 さらに70年代後半からは、入植地に隣接する街はずれの場所に、国連と協働で区画整理がされた難民用の居住地区を設置しました。これも元々はシャロンのアイディアだったようです。パレスチナ人たちは、プレハブのような一時しのぎの家ではなく、安定した生活が送れるようになるこの区画整理地域に引っ越すことを、当初は躊躇しました。(そうはなりませんでしたが)難民のステータスの放棄を迫られると考えたからです。それでも住民登録が義務付けられ、個々への管理が徹底されました。

 こうした場所は、軍の駐屯地の近くに設置された。軍事車両も、容易に侵入できる。第二次インティファーダの間には、こうした場所で虐殺といえるような行為が行われ、今回の攻撃でもターゲットにされました。

 70年代半ばからは、イスラエルでの労働許可が多数出されるようになりました。イスラエルは合法的に安い労働力を活用できるようになり、一方で、生活の糧がない難民たちにとっては、比較的高額な収入になる。こうやって、ガザ地区に自立経済が育つ環境を奪い、また人々を手名付けようとしたのです。

平井 ソフトなアメとムチの切り崩しですね。入植地ってたとえば、日本で米軍基地があって、一等地には問答無用に米国が住宅地をぼんぼん建てて、アメリカ兵を住まわせるようなもんですよね。横浜もブラフと言われる景色のいい丘の上は、外国人の建物が多くて戦後は米軍住宅もありました。私の祖母も一時期住んでいました。初めてトイレとバスタブが一緒の家に行きましたよ。その米国が、かなりしょぼいけれど今度は日本人向け住宅を用意して、そこに日本人が住んだら日本人もオイオイって話になりますね。例え話になったかわかりませんが、1993年にオスロ合意が結ばれると何が変わったのですか?

民衆蜂起をシャロンは誘発した


小田切  ガザ地区にも援助がどんどん入り、ファタハ支持者を中心に援助バブルのようになりましたが、それも長くは続きませんでした。1999年に5年間の暫定自治期間が終わり、その後に第二次インティファーダ(2000年9月~)というパレスチナ人の「民衆蜂起」が始まります。

平井 インティファーダが起きたことによって、紛争ジャーナリストがパレスチナに目を向け始めた印象がありますね。

小田切 でもこれは、パレスチナ人が自ら計画し、主導し、解放を目指した行動というより、イスラエルがパレスチナ人を紛争状態にに引きずり込んだというべきだと思います。エルサレムのイスラム教の聖地に多数の治安当局者とともに乗り込み、勃発を誘因したのもシャロンでした。
 2001年2月に首相に就任し、ガザで大規模な軍事行動を展開すると同時に、ガザを西岸から切り離された孤立無援の地にしました。
 一方で西岸では、パレスチナ人の街を隔離壁やユダヤ人専用道路で囲い込み、小さなブロックにわけました。その入口には、検問所を設置。西岸地区に存在する検問や移動障壁の数は、約750箇所に上りました。

平井 今に至る管理支配の原型ですね。

小田切 イスラエルは、西岸地区の面積の60%以上を実質的に手中に収めています。正式な国土としては国際社会に承認されていなくても、イスラエルの法が適用され、イスラエル人が居住したり、軍用地として使うことが認められた面積が、西岸の60%以上ですよ! それを認めたのがオスロ合意なんです。その上で、パレスチナ人口が集中するエリアを、「要処分地」にしようとし始めた。第二次インティファーダの時期に、西岸地区は67年のガザ地区のようになりました。シャロンは西岸を、「ガザ地区」の集合体にしたのです。


クリーム色の場所が、実際にパレスチナ人が自治を行っているエリア
(出典:PASSIA)




平井 これが、20年前の状況なんですよね。

小田切 1967年以降のイスラエルによるガザ地区統治を分析し、ロイは「反開発」という定義を生み出します。国際社会の関与はまだ限定的でしたが、イスラエルによる対ガザ地区政策が、ガザ地区の社会や経済の成長を妨げる狙いで行われていたところに注視したのです。イスラエルでの労働許可もしかり。仕事には就けるようになり、日々の生活がいくらか安定したように見えますが、イスラエルが考え方を変えれば、一瞬にしてガザ地区住民は収入を失う構造に置かれました。
 また、ガザ地区経済が完全にイスラエル経済の下部に、そして一部として組み込まれてしまうので、パレスチナ人の独自経済は成長しません。いや生まれることも非常に難しくなった。開発という名目で投じられた施策や資金が、反対の目的で機能する。むしろ、経済や社会を破壊するために使われているというべきなのです。

スーパーの生ジュース売り場。生姜とザクロのミックスジュースを勧められた。
(2018年、ガザ)

イスラエルのガザ統治を国際社会が援助

平井 最近はどうなんですか。日本もパレスチナに多額の援助をしていることで知られていますし、現地で働く日本人もいますよね。

小田切 20年くらい前から、第二次インティファーダが終わってからは、イスラエルによる統治を国際社会の援助が、あからさまに後押しし始めるのです。ガザ地区を統治しているイスラエルは、その維持費用は支払わない。誰が請け負うかといえば、国際社会の援助でガザ地区統治の費用が支払われるようになったのです。
 西側社会は、暫定自治期間も終わり、パレスチナの独立のための交渉が一切行われていないにも関わらず、イスラエルの意思に反するような行動をパレスチナ自治政府や人々が行えば、懲罰的に援助をストップするようにもなりました。完全に同じではないですが、今回、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金拠出を停止した国がたくさんありましたよね。日本も。
 さらにこのころから、イスラエルはガザ地区に、大規模軍事侵攻を繰り返すようになります。その理由が正当かどうかは置いておいて、結果から言えば、このアクションを利用してイスラエルの軍事・セキュリテイ産業は急成長するわけです。ドローンや、AI(人工知能)による個人識別技術については、スタートアップ企業とともに結構一般にも知られるようになっていますよね。

平井 イスラエル企業の技術は実は世界中で使われていますよね。

イスラエルがパレスチナを破壊すれば復興支援金がイスラエルに入るカラクリ

小田切 また巨額の復興支援金が、何度も投入されるようにもなりました。イスラエルは、ガザ地区をどれだけ破壊しても、その代償は国連関係機関や援助国が肩代わりしてくれるようになったわけです。しかも支援用を含むガザ地区への物資の搬入は、「イスラエルの意向に従ったかたちでしか搬入できない」ことになったのです。そうなると、ハマス等に武器の材料が渡るかどうか以前に、物資はイスラエル製品を中心に、イスラエル経済に利益が出るような形の物品が購入されることになるわけです。

平井 保険金の受取人が被害者ではなく加害者だったという感じですね

小田切 しかも、ガザ地区に投じられる多額な資金は、経済活動というフローではなくて、使ってしまえば消えてしまうストックとしてしか入らないのです。2014年にロイは、ガザ地区について、「反開発の完了」という言葉を使っています。家屋だけでなく、産業インフラも、社会インフラも農業も漁業も破壊しつくされ、それが再建されることがないのに、ストックとして運び込まれ、「あっという間に消える」状況になったのです。
 これが今回、日本のパレスチナ専門家たちが繰り返し、今もそうし続ける「イスラエルの許可がないと、ガザ地区には、水も食料もエネルギーも入れられない」という作り話につながるわけです。うまく胡麻化した表現が使われていますが、要は、西側政府も国連関係機関も、イスラエルに同調しているということなんです。
 たとえば国連関係機関には、イスラエルに従う理由がないはずですよね? ですから、状況を正確に言い換えれば、「西側の親イスラエル政府がイスラエルに同調しているため、国連関係機関は、国際法に準拠した活動ができない状態にある」となります。ですが実際には国連関係機関は活動を続けています。緊急援助がなければガザ地区住民の生活が完全に破綻してしまうということはありますが、国連職員もこの詭弁は訂正しませんよね? 
 確かに、緊急援助がなければガザ地区住民の生活が完全に破綻してしまうということはあります。それでも詭弁による自己正当化を止めることや、現状を公表しながら活動することはできるはずですよね。

平井 さきほどの話からすれば、現状の援助活動自体が公正ではないわけで、とすればそのような援助活動にぶらさがること自体も公正ではないとなりますね。確かに詭弁ですね。

トップ画面にあるアイスクリーム。


友人にわずかなら援助をしたところガザでアイスクリーム店を開いたという。電気は月賦で手に入れた小型ソーラーパネルを利用していた。

西側諸国は難民を引き受けたくない

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