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酔っ払ったら元彼に電話するって誰に教えてもらったんだっけ

リストカットというものをいつ知ったか覚えている。

はじめて『ライフ〜壮絶ないじめと闘う少女の物語〜』を読んだときだ。幼稚園が同じだった友達の部屋の隅っこに隠すように置いてあったその漫画は、小学2年生のわたしには少し刺激が強かった。友達も、お母さんに内緒でおばあちゃんに買ってもらったから、お母さんには秘密にしてねと言っていた。

主人公あゆむはいつもカッターをポケットに入れていて、辛いことがあると自傷行為をするのが行動のパターンとなってしまっている。

「死にたいわけでもないのに、なんでこんなことしちゃうんだろう」というセリフが衝撃的だった。

カッターを持って、自分の腕に切り傷を入れている張本人が、「なんでこんなことしちゃうんだろう」と言うから、わたしはとても驚いてしまった。それまでリストカットを行為の選択肢として持っていなかったわたしには、何が何だかわからなかった。

当時のわたしはどうしても我慢することができず、母に、自分で自分の腕を切ってしまう人がいるらしいがどうしてなのかと尋ねた。母は少し驚いたけれど、そういう行動のパターンが確かにあるということを丁寧に教えてくれた。

そしてわたしは、辛い人は腕を切ることがあると、辛いときに腕を切ると何かしらの効果があるのだと知った。リストカットは行為の選択肢の一つとして、わたしの前に現れた。わたしは新たな行為の選択肢として、リストカットを獲得した。

だからわたしは、本当に辛くなって、自分が生きていることを確かめたくなったら、痛みで感情を紛らわせたくなったら(これらは経験者のブログで読んだ)、腕をカッターで切ることを考えると思う。行動に移すかは別として。

あゆむはいつどこでリストカットを知ったのだろうか。

自分の1日を振り返ると、生まれてからしばらくして獲得した行為選択肢がベースとなっていて(それらの行為は選択され続けたために選択している感がない)、その上に、ここ5〜6年の間に入ってきた選択肢があって、飾り付けみたいに最近入ってきた選択肢たちがあるように思う。

生活のベースとなっている行為選択肢以外は、辿ってみれば大概いつどこで得たのかわかる。特に生活の飾り付けに当たる行為は、いつどこで選択肢として獲得したのか、思い出しやすい傾向にある。

例えば、わたしはいまキールズというブランドの化粧水や保湿クリームを使っているけど、これは元アシタノワダイナビゲーターの八田エミリさんが使っていると知ったときに現れた選択肢。

今日電車で『ダンジョン飯』を読むという行為は、大学の友達に薦められたときに現れた選択肢。

エクステを付けるという選択肢は好きなアイドルがエクステを付けていると知ったときに現れた選択肢で、わたしがこんなふうにnoteを書くという行為は大学の先輩のnoteをはじめて読んだ大学一年生の春に行為の選択肢として現れた。

大概は思い出せる。獲得の瞬間を思い出すことができる。

だけどときどき、どこで獲得したのかわからない行為の選択肢が、わたしにあることがある。

いつからだろうか、酔うと「わたしは元彼に電話したりしないよ〜〜ん」が、頭の中に響くようになったのは。

「しない」を選択するということは、「する」という選択肢があるという証拠なのだけど、一度も選択したことのないこの選択肢が、いつわたしの前に現れたのだろうかと気になって仕方がない。最近は酔うとそのことばかり考えてしまう。いつだ、いつ知ったんだ、いつからしないを選択するようになったんだ、いつからするかもしれなくなったんだ・・・・・

酔うと元彼に電話をする友人Sは、「寂しくなるから電話する」と供述している。しかし、「酔ったから元彼に電話する」は、「喉が乾いたから水分をとる」とは訳が違う。

「喉が渇いた」状態は「水を飲む」ことでしか癒すことはできない。だから、誰に教わるでもなく、人間に(動物に)共通した行動のパターンとしてあることに違和はない。しかし、「酔ったら(寂しくなって)元恋人に電話する」こいつには違和感しかない。「寂しい」「酔う」「元恋人に電話」は必然的につながる要素ではない。

それなのになぜ、友人Sと同じ行為のパターンを持つ人がこの世に多くいるのだろうか。

これはリストカットの普及と同じ類の不思議な事実だ。

電話が発明されてから人類で一番初めに酔って元恋人に電話する人を観測した人間が、酔ったときは元恋人に電話するいい機会だ考え、酔ったときに元恋人に電話するようになって、それを見た人間が・・・みたいな話か、あるいは「酔い」状態そのものに人間に「元恋人に電話」という行為の選択肢を発現させる作用があるのか。怒りと暴力の関係のようなものなのだろうか。前者の2人目からは経験的に得た行為パターン、つまり文化であるという説、後者は内側から酔いをきっかけに、行為が現れたパターン、つまりある意味での本能説である。

ところで「酔って元恋人に電話する」という行為には、「酔う」→「ケータイをもつ」→「LINEあるいは電話帳を開く」→「(数ある連絡先の中から)元恋人を探す」→「電話をかける」という過程があり、行為の途中離脱率はかなり高いと思われる。「ムカついたから殴る」よりも長い道のりなのだ、酔って元恋人に電話をかけるのは。この道のりを達成する人がこの世に多くいること、この行為が一つの人間の(若者の?)行為のパターンとして認知されているのはやはりそのような文化があるからなのだろうか。

わたしは友人Sが電話するのを見て、「あ〜いるよね〜」と思ったので、すでにどこかで酔った人間は元恋人に電話するという行動パターンがあると知っていたということになる。しかし、いつ得た行為の選択肢だろうか。思い出すことができない。

わたしは酔った人が元恋人に電話するという行為のパターンを知らずとも、それを行為の選択肢に入れただろうか。もう知るよしもないが。


そしてこのnoteを読んでくださったあなたは、酔っ払ったときに元恋人に電話するという選択肢を、元々その選択肢があった人はわたしのnoteを思い出し読み返すという選択肢を獲得しました。キールズを使用するを獲得した人もいますね。あとは八田エミリさんのYouTubeを見るという選択肢も得ましたね、ダンジョン飯、面白いですよ・・・・・

そしてこのnoteは、これからは行為の獲得により敏感になり、その瞬間を確実に認識するぞというわたしの決意表明で終わります。みなさんのなかにモヤモヤが残りますように。おやすみなさい。

今日の一曲:Katy Perry『The One That Got Away』



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