【受賞作発表】ひらづみ短編コンテストvol,1 お題「ひらづみ」
【優秀作】『平積みポーカー』桃山台学
「先生、大変です」
担当編集者の小曽根君が近所のカフェでくつろいでいた私のところに駆け込んできた。
「先生のストレートが敗れました」
これだけ聞くと私が野球の投手でライバルの打者に打ち込まれたのかと思うかもしれないが、そうではない。私はベストセラー作家とまではいかないが、そこそこ売れてはいる中堅のミステリー作家だ。
私の超大作『真夜中のストレート』は文庫本では5冊シリーズになった。担当の小曽根君が装丁に凝って、トランプのカードの柄をあしらって、四つのマークをとりまぜてストレートの手札をつくることにしたのだ。書店さんには好評で、平積みにして5冊並べて置いてくれていた。売り上げも好調だったのだ。
「どういうことなんだ?」
「勝股先生が、上下二巻の『漆黒のクイーン達』と上中下巻で去年出した『三人のエース』にそれぞれクイーンとエースの絵柄に表紙をつけかえて、フルハウスにして書店に」
なんということだ。知っていると思うが、ポーカーというカードゲームでフルハウスはストレートよりも強い札なのだ。平積みでは、ストレートは凌駕されてしまう。
「よし、今並んでいる俺の『ストレート』の表紙を、全部同じマークに統一しよう。スペードがいいかな。そうすれば、ストレートフラッシュになって、フルハウスに勝てるぞ」
「先生、それは勘弁してくださいよ。すでに刷り終わってるんですから。だいたい、それなら本のタイトルが『真夜中のストレートフラッシュ』じゃなきゃおかしいじゃないですか」
たしかに、それは理屈だ。
「でも、負けてはいられないな。作戦を練らなければ」
こうなるともはや、意地としかいいようがない。勝股はライバルというか、同じジャンルで名前が五十音順で近いことがあって、どうしても負けたくないのだ。
「今、加納先生がうちから出されている本のカバーだけを5冊分、付け替えればなんとかなるんじゃないでしょうか」
「しかし、無理にポーカーの役作りをしても、笑いものになるだけだろう」
勝股が新人賞を獲って以来、主に書いている出版社の担当者の勝ち誇ったような顔が浮かぶ。たまたま勝股の著作にクイーンとエースというタイトルが入っていたから、フルハウスができたのだ。それを上回る役を作って、平積みの五冊分の面積を取り戻さなければ。
「こうなれば先生、文庫書き下ろしで『ストレート』の続編を五冊出すしかないですよ。タイトルはすばり、『明け方のロイヤルストレートフラッシュ』」
そんなことできるわけがないだろ、と私は小曽根君の頭を軽くはたく。だいたい、五冊分の原稿を書くのに、どれだけ時間と手間がかかると思っているのだ。
「しかし、このままというわけには」
私たちは頭を寄せ合って考えた。今から書くわけにはいかない。私の過去に出版した文庫の作品の表紙だけをリニューアルするしかない。それにトランプの柄を印刷するのだ。
「よし、フォアカードを作ればいい。そうすればフルハウスに勝てる」
「でも先生、トランプにつながるタイトルは、『誤認の心臓外来』くらいしかないです。あれを無理矢理ハートの5にするくらいしか」
「よし、それはそれで一枚として、あとの4冊の表紙を同じ数字か絵柄にすればいいんだな」
俺と小曽根君は珈琲をお替りしながら、カフェでさんざん知恵を絞った。
翌週、俺の既刊の文庫本に新しい表紙が巻かれて、書店に配られた。ハートの5の一冊に加え、残りの四冊には全部、別の絵柄のジョーカーがあしらわれていて、帯にあたる部分にはこう書かれている。
「ミステリー界のジョーカー、加納忠吉。至高のカルテット・セレクション」
さあて、売り場の平積みで、勝股のフルハウスの場所を奪い取れるかどうか。書店員がどう判断するか。
もちろん、とって変わらなくてもいい。私のストレート、勝股のフルハウスに加えて、ジョーカーのフォアカードを並べてもらっても、いっこうにかまわないのだが。
【佳作】『本に触れる、日々を想う』藤田伊代
「足元、気を付けてくださいね。ガラスの破片もあるので。」
自治体の担当者が店内の入り口を指して言う。入り口以外から光の入らない薄暗い店内は、土埃の香りがした。人口減に伴い居住者を失った商店街は、そのまま廃墟の群れとなっていた。何となく教科書や映画で見たことがある商店街に、心の中で『おぉ』となりながらも、一方で町の残骸はどことなく寂しかった。 社会科見学でこの廃墟群を訪れた学生たちは恐る恐る建物内を覗き込んだ。再開発の予定もあったその商店街は、周辺の公共バスの本数が増やせないことや、最寄り駅の電車本数減により再開発後の集客も見込めず、結局放置されたまま年月がたち、廃墟群となったらしい。
「ここ、何のお店だったんだろう」
学生の一人が店内を見渡しながら首をかしげる。少し低い位置に設置された平台には今は何も置かれていない。
「ここは書店でした。」
学生の問いに自治体担当者が答える。学生たちは『あぁ、これが』と、一時わっと盛り上がった。
「今は端末で本を読むことが主流ですし、紙の本も自動販売機からの購入が一般的ですよね。当時はこのような台に本を並べて、実際に手に取りながら選べたんです。」
「一冊丸ごと立ち読みが出来たってことですか?」
担当者の問いに、学生が驚いたような声を出した。
「そうです。コミックなど、一部の本はフィルムで覆われて立ち読み不可でしたが、小説や雑誌などは自由に立ち読みが出来たようです。」
「それって、誰かが手にとった本を購入するかもしれないってこと?」
『ちょっと嫌だなあ』と、学生たちが苦笑する。『今では想像出来ないですよね』と、担当者も笑った。
「でも、こうして台に平積みされた本を手に取って、現物の感触を確かめて、中身も確認して、そうして『手元に置こう』と決められたのは、ちょっと羨ましいですよね。」
何も載っていない台にゆっくり視線を這わす担当者につられて、学生たちもふと夢想する。
隙間なく本が積まれている棚を眺めて、気になる本に手を伸ばしていた過去の日々。この棚から本を購入し、持ち帰った人が当時たしかにいた、という事実。
「皆さんのおじいさんやおばあさんの時代はまだ紙の本と電子書籍が共存していた時代でした。機会があればぜひ、当時のお話を聞いてみてくださいね。」
『では、もう少し奥に進んでみましょう』と、担当者が建物から離れ歩き出す。『ほら、移動するぞ』と引率の先生が声をかけると、ぞろぞろと集団は動き出した。薄暗い、棚だけが残された店内を一瞥し、次々と動き出す列に続いていく。
最後尾の学生が、少しだけ列に遅れながら店内を覗き見た。本が並んでいただろう空っぽの棚には吹き込んだ砂が積り、入り口から差し込む光だけが一筋、長く伸びている。
『寂しい』と、あらためて思った。ここにあった時間が失われたことや、こうして思い出の場所が風化した誰かが、まだどこかに生きていること。そしていつか、自分も同じように日常だったものを失う日が来るかもしれないこと。言語化出来ない何かが一瞬ぐるぐると頭を駆け巡り、けれどすぐに我に返り、少し離れた列を追いかけて足早に建物を離れた。
学生たちが遠ざかり、あたりはまた静寂を取り戻す。書店だった店内は、入口から差し込む日差しに照らされて、砂埃がキラキラと宙を舞う。日差しは少しずつ陰り、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように静かな店内は、やがて完全に光が絶えた。
【佳作】『冬枯れ』半田虻
ペンを走らせる手が止まって、かなり長い時間が経ったような気がする。キーボードのホームポジションに貼りついたままの指を剥がして、俺は四畳半の中央に置かれた小さな円卓からおもむろに立ち上がった。
外は師走の木枯らしが吹きつけていて、薄い外套をやすやすと通り抜けて肌を刺す。あてもなく街を歩き回りながら、すれ違うカップルに自分の孤独を責め立てられるような錯覚に陥る。かつて友人に「俺は文学が恋人だから」と笑いながら話していた俺も今や20代の終わりに差しかかってしまっていた。暴力的なまでの時の流れの速さを体感できるまでに歳をとってしまったことに、少しだけ悲しくなる。
規則正しく並んだ街路樹はほとんど葉を落として灰色の木肌を曝している。世界には色がなく、みな曇り空と同じ灰色一色に見える。
俺がとある新人賞で大賞を獲ったのは二十歳の時だった。大学生活のかたわら夜を削って書き上げた記憶が甦る。10代の頃から応募し続けて実に3作品目での受賞だった。わりと大きな出版社が主催する賞だったこともあり、学生の身分には多すぎるほどの賞金が出て、受賞後はすぐに出版の話があった。こぢんまりとではあるものの授賞式も行われ、いくつかのメディアからのインタビューもこなした。小説が売れないとされている現代において、俺の小説家としてのデビューは比較的華々しいものだった。一冊目の売れ行きも悪くなく、すぐに担当と次回作に向けての打ち合わせが始まった。
こんな目まぐるしい生活の変化の中にあっても、俺は決して慢心などはしていなかったと断言できる。ただ、この世界がそう一筋縄ではいかなかったというだけの話だ。___俺は小説家として10年近く、まったくうだつの上がらない日々に甘んじていた。
俺の足はいつしか一つの場所に向かっていた。大学に入ってから何度も通い詰めた書店。地元の家族が経営していて、本や文具からCD、雑貨まで、個性的なものがそろっていてコアなファンの多い店だ。友達も多くなかった俺は、この店をよく訪れては、いつもレジを打っているおばあさんと話し込んでいた。おばあさんは俺が小説家を目指していることも知っていた。賞を獲ったときも家族より先に報告に行った。「店のいちばんよく見えるところに平積みで置いてあげるわね」そう言っておばあさんは自分のことのように喜んでくれた。
大きな駐車場を横切って店へ入る。途端に懐かしい埃と紙の匂いがした。入って左にあるレジでは父親くらいの年齢の男の人が本を読んでいる。おばあさんは数年前に死んでしまって、もうこの店にはいない。俺がこの店に来なくなったのも同じ時期だった。
棚の並びは昔と変わっていなかった。俺がここへ来なくなってから、この店の中だけ時が止まっていたかのようだった。
おもむろにハードカバーが売られている一角へ行ってみる。目は自然と棚の下側へ向かう。平積みになっているのはもちろん俺の作品ではなく、いま話題の小説たちだった。平積みコーナーは自然界の縮図のようだと思った。目まぐるしいスピードで代謝し、生き残れなかった作品たちはすぐに淘汰されてしまう。広い棚の左隅に、俺のデビュー作が一冊だけ、来ない誰かを待つように佇んでいた。俺の最新刊はどこにも並んでいなかった。
ああそうか、ついに俺という存在までも淘汰されてしまったんだな。
俺はデビュー作を棚から引き抜いた。それはほとんど棚の壁とくっついてしまっていて、取り出すのに時間が掛かった。破れ目が入った黄色い帯には、「弱冠20歳 文芸界期待の大型新人」と大きく書かれている。出版された当時の帯だ。おばあさんがたくさん平積みにしてくれた売れ残りだろう。
右を見ると、一人の若い女性が両手で本を抱えるようにして立ち読みにふけっていた。女性の背負うリュックサックはチャックが大きく開いている。指摘しかけて、俺はふと立ち止まった。
本を物色するふりをして、女性の後ろを通り過ぎる。その瞬間に、リュックサックの中に俺のデビュー作をすべり込ませた。女性はまったく気づく様子もない。手に持った、おそらく平積みのものであろう本に夢中になっている。
なぜ自分が咄嗟にこんな行動に出たか、それは自分でもよく分かっていない。ただ後に残ったのは、この店に残る最後の一冊を自分の手で見届けられたことに対する、ある種の清々しさのようなものだった。この行為は俺なりの、文学的な感傷や衒いとの決別だったのだろう。
俺はそのまま店を出た。そして外套に首をうずめながら、人ひとり歩いていない寒々とした街の中、もと来た道を足早に帰って行った。
【佳作】『雪牢』中型犬
新潟の冬はバカ寒い。バカみたいに雪が降る。と言っても、生まれてこの方新潟でしか過ごしたことがないから、北海道とかもっとやばいのかもしれないけど、私は私の世界の事しか知らんので、やっぱり新潟の冬はバカだ。
「もしもしさやか、養育費なんだけどさ、今月の振込、一日遅くなるから」
「なんで」
「二十日が立て込んでてさ、休みが取れるのが、二十一日の午前しかないんだよ」
「ちゃんと振り込んでよ」
月々三万円の養育費。もともと中高の同級生の和成とは、二十五歳で授かり婚をしたが、次の年に離婚した。
「さやかさん、残業いける?」
「こども帰ってきちゃうんで無理っす」
「新しく入る人のケアプランの作成だけでもしてもらえると助かるんだけど。テレワークで残業つけていいからさ」
「あー、それなら大丈夫です。三件でしたっけ」
「そうそう」
二十五歳で結婚したときに、それまで働いていたレストランをやめた。離婚後、子どもを保育園に入れる算段が付いたときに、レストランに戻ろうとしたが、オーナーの方針で未婚の若い女しか入れないということが発覚し、レストランによく通っていたお客さんがオーナーをしていた介護施設に就職し、そのまま十年以上働いている。
定時の音楽が流れて、いつもは置いていくパソコンと三人分の書類をトートバックにぶち込んで、軽自動車に走り乗って家に帰った。
「おかえりー」
「ただいまー。今日はどうだったー」
「シャーペン壊れたから買いに行きたい」
「お、まじか。じゃあ、今行っちゃうか」
「うん」
晴斗はよく育ってくれている。もちろん私と和成の子どもだから頭はあまりよくないが、自分で働いて稼げるようになってくれれば、私はもうそれだけでいい。
蔦屋書店に到着すると、晴斗は早々に目当てのシャーペンを見つけてミッションは終了した。
「マンガ見てきていい?」
「いいけど、ご飯あるから、十分くらいな」
「うん」
自分もマンガコーナーに行こうと移動する途中にあった特集スペースの平積みが目に留まる。
『地元新潟が生んだ天才。大村浩一特集。』という大きな文字の横に頭がよさそうな演出のポーズをとる大村浩一のパネルがある。
大村浩一は中高の同級生である。和成とも仲がよかった。ずっと学級委員長をしていた大村浩一は、男子にも女子にも優しい、まあいいやつだった。そんな大村浩一は、高二のときに私に告白してきた。正直迷った。すでに東京の頭のいい大学にいくことがほぼ確状態の優良物件。しかし、絶望的に恰好がダサくて、顔がブス。ごめんと断った。すぐに大村浩一は、「そうだよね、ごめんね、変な感じにして」と取り繕ってたけど、めっちゃ落ち込んでた。あと、そのあと、その告白する感じをふざけて女子で真似してたのが、本人の耳に入って、本人ではなく、先生から怒られた。
大村浩一の本はどれも難しそうで読む気にならないが、売れているのだけはわかった。うしろからきた年配の女性二人組が本を手にとる。
「この子、白沢の大村さんちの子でしょ」
「そうそう、こないだテレビで年収一億とか言ってたわよ」
一億。三万で小競り合いをしていた私たちと大村浩一は同じ教室にいた。
「俺、東京の大学行こうと思ってる。和成君とさやかさんはどうするの」
「俺はニートかな」
「私もそうだね」
命運別れすぎ。ウケる。パネルになった大村浩一は、昔ほどブスじゃない、メイクをしているし、服も高そうなスーツを着ている。まあ、なくはない。じゃあ、私はこの未来を見越していたらよかったのか、一冊手に取ってみた。だめだ、一文字も意味がわからない。
「お母さん。これ買っていい?」
「私も読むよ」
「いいよ」
「よし」
晴斗はイケメンである。金よりも顔。蔦屋書店を出ると吹雪がひどいが、軽自動車に乗り込んだら、なんてことはない。窓の外にニートになることを宣言した私たちを憐れむように見ていたあの日の大村浩一が一瞬現れてすぐに雪に埋もれて消えた。久々に介護施設のオーナーと飯でも行ってお小遣いでももらうかな。無論、私は美人である。
【佳作】『藻間書店』暮らす豆
ハンカチだけは、手縫いと決めている。
大小さまざまな布の端切れが散らばった部屋の隅にうずくまり、一つだけていねいな四角形に整えられたそれの端を少しだけ折って、針を幾度も潜らせていった。
最後のひと刺しを終えて、あっという間に出来上がったハンカチを人差し指と親指でつまみ上げ、ようやく一息つく。その薄桃色は、鼻先でそよそよと頼りなく揺らいだ。
藻間書店は知ってる? と不意に聞いてきたカメダさんは、妙に得意げな顔をしていた。先週の日曜日のことだ。
「ぼくの知り合いがやっているお店でね、マニアの間ではちょっとした評判なんだ。きみ、古書が好きでしょう?」
まあ、と生返事を装いつつ、そっと足を組み替える。大型書店ひとつしかないこの街に不満はなかったが、それでもときどきせせこましい店内に所狭しと並べられた背の高い本棚が、ぎっしりと詰め込まれた古書たちの独特の匂いが、ふと恋しくなってしまう瞬間がある。手触りの良い思い出に浸りながらいい加減に相槌を打っていたら、いつの間にかカメダさんと藻間書店を訪れることに決まっていた。
次の日曜。前を行くカメダさんは、すいすいと楽しげにどんどん進んでいく。何度待って、と言っても聞いてもらえない。果てがないとさえ思えた追いかけっこの末、這々の体で辿り着いたその書店は、なんと深い海の底にあった。
「こんにちは、初めまして。遠路はるばるありがとうございます」
カメダさんの友人であり藻間書店の店長であるスズキさんは、つるつるした銀色の頭をそうっと下げた。こちらも軽く会釈をして、店内に目を走らせる。「店内」という言い方は、果たして適当だろうか。夕方の終わり、夜が来る前の一瞬に似た深い青が沈み込んだ一帯。かろうじて頭上から差し込んでいる光は、繁茂した海藻によって緑色に散らされていた。岩や珊瑚のかけらこそあれ、本などどこにも見当たらない。辺りをしきりに見回していると、スズキさんは快活に笑った。カメダさんも、少し間を置いてから笑い始めた。
「ははは。初めていらっしゃった方は、みなさんそういう反応をなさるんです。よく見て。今あなたが踏みつけているそれも、うちの商品ですよ」
思わず飛び上がって謝罪すると、スズキさんはお気になさらず、とおおらかに微笑む。
「それは、ざっと百年前に書かれた哲学書ですね。海中に生を受けた者の存在意義を探究し続けた、あるイワシの遺作です」
なるほど? 今の今まで自分の足が置かれていた辺りには、やたらに平べったくて大きな石がいくつか積み上がっていた。これが本? 身をかがめてよく見ると、確かに岩の表面には非常に小さい文字が無数に刻まれている。尖った石か何かで傷をつけたようだった。改めて見てみると、辺りには似たような形をした石が数多く転がっている。これらが全て本だとしたら、確かにかなりの蔵書量だろう。
「本棚がない本屋なんて、初めてだ」
「そうですか。うちの蔵書はみんな大きさが違って、おまけにでこぼこしているものだから、どこかに収納するのが難しい。仕方なくそのまま積んでいるんですよ」
「どんな本も等しく平積みにされるって、なんかいいですね」
冗談のつもりだったのに、スズキさんはふ、と曖昧に笑うだけだった。口の先端から漏れたひとかたまりの泡が、絡まり、消える。
ファンタジー小説が集まるエリアを教えてもらって立ち読みに興じていたら、なぜだかひどく文字が読みづらくなってきた。気づけば、来た時とは比べ物にならないほど辺りが暗くなっている。かろうじて抱えて帰れそうな短編小説を二、三見繕って、カメダさんと話し込んでいたらしいスズキさんに声をかけお会計をお願いすると、スズキさんは頭を横に振った。
「だって、ただの石と言えば石でしょう」
不本意ながら貨幣経済が骨の髄まで染み付いている身としては、そんな泥棒めいたことができるはずもなく、「あっ」突如思い出して、ジーンズのポケットを探った。朝方家を出る前ていねいに折り畳んで入れたそれは、しんなりしていたもののもちろんそこにあった。端をつまんで勢いよく引き抜いたら、うわあ、ともふわあ、ともつかない感嘆の声が、スズキさんの口から洩れた。
暗闇にすっかり支配された海の底、ポケットから液体のようにあふれ出した薄桃色のハンカチはわずかな光を反射して、ほとんど白色に見えた。そっと銀色の頭に載せてやると、スズキさんはありがとうございます、と声を詰まらせた。
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