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人生をほどほどに諦める

20年ぐらい、仕事とは別に「作品」というものを作ってきましたが、作品のために仕事を断ったり、大幅にスケジュールを調整したことはありません。

いま私には家庭があり、子どもが2人いて、子どもを成人になるまで育てる義務があります。子どもがいるけれど、自分のやりたい事を優先したいからと言って、子育てを放棄することは出来ません。これはもう絶対的です。

一方、私に任されたレギュラーの仕事があります。誰でも良い仕事ではなく、クライアントに指名され、続いている仕事は、子どもの様でもあります。これも余程のことがない限り優先します。

子育てとレギュラー仕事は、絶対的スケジュールとして、私の予定表の中に君臨しています。更にその中には「子守の日」と書いてある日がありまして、妻が仕事で出かける日や、飲みに行く日を絶対的に死守する日があるんです。「子守の日」は、撮影や編集と同等の価値を持っています。私はマネージャーがいますので、「子守の日」を撮影や編集や打ち合わせと同等に扱ってもらっています。「子守の日なので撮影は入れられません。」「子守の日がかぶっているので、その仕事は受けられません。」なのです。

幸いにも仕事が途切れることが無く、一年中忙しく働いているので、普通にやっていたら「作品」は作れません。作る時間が無いのです。でもなぜ20年も作品が作れたかと言うと、「カウンター攻撃」をしてきたからかもしれません。

作品を作るために、育児やレギュラー仕事を犠牲にすることなく、ちょっとすき間が空いた時に、一気に勝負をするんです。一年の9割は守りですが、残りの1割で攻撃を仕掛けています。

麻雀で言うと、日常はほぼ「降りてる」と言っても過言ではありません。負けが許されないから、無理して勝ちに行きませんが、配牌が良い時だけ勝ちに行きます。サッカーで言うと、自陣でボールを回して、スキを見てカウンター攻撃をする感じでしょうか。

命がけで作品を作っている方々からしたら、「作品」を作っているくせに、根性が足りない奴だ、覚悟が足りない奴だと思われると思いますが、しょうがないのです。作品のために家庭や仕事を見捨てることは出来ないのです。良くも悪くも「諦める」しか無いのです。

これはネガティブで単純な「諦める」ではなく、人生を達観しての「諦める」なのかもしれません。「出来ないものは出来ない。無理しない。出来る範囲で何が出来るか?」という姿勢です。あの巨匠やあの新進気鋭と比べてもしょうがないのです。

とは言え、完全に諦めてしまうと人生が楽しくありません。だから、カウンター攻撃をするんです。やれそうな時に一気にやるんです。

私は数年前に実写の作品が作れない時期がありました。仕事が忙しかったり、お金が集められなかったりして、たくさんのスタッフで作品が作れなかったんです。その時は手法をアニメーションに変えました。作品作りを完全に諦めることはせず、ほどほどに諦めました。私はアニメーション作家ではないのですが、作品を作るにはそれしか方法が無かったのでそうしました。でも、そういう消極的選択から新しい発見があることも多々あります。

世界を見渡せば、1本の映画を作って何千万円、何億円ももらって、5年ぐらい遊んでいられる監督もいますが、日本ではそれは出来ません。相撲で食べて行きたくても、イギリスでは相撲で食べていけないのと同じです。南アフリカでも相撲では食べていけないのです。でも日本だったら相撲で食べていけるのです。

同様に日本では「作品」では食べていけないのです。特に「映画」では。何がおかしいとかではなく、そういうものだからです。南アフリカで相撲をやっている人が南アフリカの相撲事情を批判しても仕方ないのです。そういうものだからです。相撲で食べて行きたかったら日本に来るしかないのです。映画で食べて行きたかったらアメリカに行くしか無いのです。

人生は、ほどほどに諦めなきゃダメだな、と思うようになったのは、40歳を超えてからかもしれません。厄年に入ってすぐに過労で倒れたのも、そう思わせるキッカケだった気がします。

諦めるという言葉はネガティブですが、人生を楽にしてくれる言葉でもあります。諦めるという言葉で、自分が幸せになれる、力を抜いて人生を送れるなら、人からどうこう言われる筋合いのものではありませんから。

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