平林勇の仕事歴
このページは私は、私の仕事歴をまとめたものになります。その年にやった主な仕事を簡単に紹介しています。
2023年
『しまじろうのわお!』ではここ数年、「生物多様性コーナー」をたくさん作っています。未就学児を対象にして、ここまで体系的に生物多様性を扱っているコンテンツは無いと思います。実は「生物多様性」は私がとても関心を持っているテーマでして、何らかの形で一生関わっていきたいとも思っています。Youtubeで「しまじろう 生物多様性」で検索するとたくさん出てきますので見てみてください。
2022年
カニカマを生み出したスギヨのブランデッドムービー『カニカマ氏、語る。』です。能登半島の七尾市にある和倉温泉で撮影しましたが、2024年の能登半島地震で撮影したロケ地も被害に遭いました。このブランデッドムービーは映文連アワード2022にて経済産業大臣賞を受賞しました。
佐賀県唐津市の観光映像『佐賀県唐津市のこと、もっと知って下さい。』を新日本プロレスとのコラボで作りました。なかなかすごい歌詞ですので、一度聞いてみて下さい。この映像は日本国際観光映像祭のシティプロモーション部門で優秀賞を受賞しました。
2021年
『湖池屋SDGs劇場サスとテナ』という、小学生にSDGsを伝えるTVアニメシリーズを作りました。企画をゼロから立ち上げて、企画・シナリオ・演出まで関わりました。共同監督としてオースミユーカさんと一緒にやっています。SDGsのアニメなんですが、真面目にしすぎると見てもらえないので、かなりくだけた表現にしました。2022年にはシーズン2が始まります。湖池屋さんのYouTubeチャンネルで、シリーズ全部を見ることが出来ます。
全国銀行協会の詐欺防止のCMも作りました。マペットの仕事は本当にたくさんして来ています。こんなにマペットの仕事をしているディレクターもいないんじゃないかと自負しております。マペットの仕事は、マペットのデザインと操演の方の技術の2つがとても大事になります。
福井県の若狭湾の公式観光ビデオ『若狭の魅力を伝えたいけど予算がねえ』も作りました。ラッパーのDOTAMAさんに楽曲を作ってもらいました。かなり自由に作らせてもらった地域観光映像になります。
2020年
2020年はコロナが始まった年になります。撮影が関わる仕事はほとんど無くなりましたが、アニメーションの仕事は普通に進んでいましたね。
私が演出をやっている『しまじろうのわお!』の中で、子供たちに新型コロナウイルスについて教える映像を作りました。ニュースで毎日のように「新型コロナ」という言葉が出て来ていたので、子供たちに出来るだけ分かりやすく作りました。タイミングも大事だったので、大急ぎで作りました。
この年は『ムーニー BABY TV』というYouTubeチャンネル用のアニメーションも作りました。アニメーションの演出もよくやるので、コロナ禍に仕事が止まってしまう事も無かったです。
2019年
ネスレのブランデッドムービーで「上田家の食卓」というシリーズ映像を作りました。本当に大好きなキャストの方々に出演していただいて、面白い世界観の家族物語になりました。私は大学生の頃から広告が大好きで、社会人になってCMディレクターになりやってきましたが、自分の作品として短編映画を作り始めたのは、広告の後なんです。広告と映画のミックスされたブランデッドムービーというのは、まさに私のために出来たメディアなんじゃないかと思っています。
2018年
この年も忙しい年でした。シネマファイターズのプロジェクト『ウタモノガタリ』の中の1本である『Kuu』という作品を監督させて頂きました。E-girlsの石井杏奈さん、山口乃々華さん、坂東希さんに、民族的なダンスをしてもらい、対話をするという短編映画になります。
そして、こどもちゃれんじの「ほっぷ」というラインの映像パートも作りました。コンセプトをプレゼンする時に、概念的なプレゼンシートを作ってプレゼンして、場が凍りついたことを覚えています。でも、結果的にはクライアントの理解もあり、芯のある強いコンセプトを持った映像になりました。
さらに、「ぐらがくる」という横浜市民防災センターのシアターで上映される映像も作りました。円形の180度のスクリーンで上映される映像なので、すごく横長なんです。
2017年
『しまじろうのわお!』は、海外のメディアフェスティバルにも積極的に参加しようとして来ました。この「恐竜」をテーマにした回は、アジアテレビ賞というアジアの大きなメディアフェスティバルで最優秀賞を頂きました。その前には、国際エミー賞にノミネートされたり、日本賞という教育コンテンツの賞にもノミネートされています。視聴者の反応も大事ですが、専門家達がお互いの仕事を評価し合う海外のメディアフェスティバルに「さらされる」事は、自分たちのスタンスを客観的に見ることが出来るので、とても大事なことなんだと思っています。流行り廃りではなく、本質を描いていないと、ノミネートすらされない世界ですから。
2016年
この頃は完全にしまじろうに命を捧げていた時期ですね。ほとんどしまじろうの仕事しかしてなかったんじゃないかと思うぐらいやってました。東加奈子さんに「こはく」というお姉さんを演っていただいて、しまじろうとこはくさんが、本当に哲学的な会話をしていました。子ども番組はなかなか難しいところもあって、ダイレクトに子どもの反応が出ないと、成功したコーナーと言われなかったりするんです。わかりやすく言うと、テレビの前で歌に合わせて子どもが踊っていたら成功したコーナー、と言われたりします。でも、私は子どもの頃、ポンキッキを見ていて、大好きなコーナーがありましたが、鼻息荒く睨みつけるように見ていた記憶があります。
2015年
これは『Little Shimajiro』という作品で、全編コマ撮りアニメーションで作ったしまじろうになります。ドワーフさんにアニメーションをやっていただいて、ものすごい完成度の高いアニメーションになりました。100ぐらいの映画祭でも上映されました。私の中でも、かなり好きな作品になります。
2014年
「じゃらん」のにゃらんのCMでは、この頃、一代目と二代目が共存してました。シリーズの中でも一番かわいい時期だったのかも知れません。一発撮りみたく見えますが、猫も一匹ずつ、その他、例えばコイの動きもいいテイクを持って来て合成しています。
2013年
この年ついに、憧れの三浦知良さんとお仕事をすることが出来ました。東京西川のAiRというマットレスのCMです。しかしまあ、メチャクチャカッコいい方でした。オーラと人柄がすごかったです。このCMのシリーズも何回か続き、カズさんとも何度か撮影をさせていただきました。
JRの企業CMも作りました。南紀白浜あたりにロケに行きました。海岸や森の中に、実際に鉄道模型を走らせました。Nゲージじゃなくて、HOゲージだった気がします。こういう人が出てこないCMもすごく好きです。天気以外、ほぼ思い通りにコントロールできますから。
2012年
2011年の後半から、しまじろうのテレビ番組『しまじろうのわお!』に携わることになりました。2011年に番組の企画などをし、2012年4月から番組のオンエアが始まりました。私の子供がちょうどしまじろうを観る歳だったので、自分の子どもに向けて作っていた感じがあります。基本的に週に一回、定例会という会があり、そこで企画を詰めたり、オフラインをチェックしたり、いろんな事が行われます。制作会社であるDASHの会議室に、ベネッセの方々、我々制作側、児童心理学の沢井先生などが集まってやっているんです。私は腹を据えて命がけで作ることにしたので、ベネッセの方々に対しても、生意気なことばっかり言ってましたね。だって、子ども番組って、それを観た子どもたちの人生に影響を与えてしまいますから。それでも、かなり自由に作らせてもらっていると思います。
同時に、しまじろうの映画も始まりました。私はトータルで5本作りました。映画は1年がかりで作るので、番組よりかなり大変でしたね。でも映画を作ったことで、しまじろうの制作チームがかなり団結出来た気がします。ベネッセの方々ともガチで話をする場面もたくさんありましたし。
『しまじろうのわお!』の仕事は、2022年現在、いまだに続いています。
2011年
2011年の前半は東日本大震災の影響で、CMなどの仕事は極端に減りました。そんな中で作っていたのは、Youtubeのしまじろうチャンネル用のコンテンツの『5さいのうた』でした。アニメーション作家に頼むことをせず、全部自分でやってみようと思ってイラストから自分で描きました。イラストを描いてスキャンして、AfterEffectsで動かす作業をひたすらやっていました。東日本大震災の余震が続いていた頃でしたが、震度4や3ぐらいの揺れでは、手が止まることはありませんでした。家は揺れてるけどイラストを描いていました。今考えると、ものすごい状況だったなと思います。
この年の後半は一気に仕事が動き出しまして、私もたくさんの仕事をすることになりました。人生の中で一番たくさん仕事をやった時期かもしれません。そして、過労になり年明けすぐに倒れました。倒れてから1年ぐらいは体調不良が続きましたので、一過的な過労ではなく蓄積された過労によって倒れたんだと思います。
2010年
この年は経済産業省の仕事で、山形県鶴岡市の「kibiso」というブランドのムービーを作りました。鶴岡に何度も通いましたが、本当にいい場所でした。東北芸術工科大学の学生の方々と一緒に作るアニメーションパートがあったりして面白かったです。基本的には鶴岡市の絹がテーマなのですが、絹は昆虫が作り出すものなので、生物好きな私にとってはすごく刺激的なテーマでもありました。昆虫が人間の生活の一部になっているって、そういう事にすごくワクワクします。あるいは、滋賀県北部の里山みたいな、自然と人間がしっかり共生しているような場所もすごく好きです。
2009年
じゃらんのCMから派生して、「にゃらんたび」という60分のDVDを作りました。これはシリーズ化して3本作りました。のちに、アニマルプラネットでも番組としてオンエアされました。私は動物番組を作ることに憧れているので、自分が作った映像がアニマルプラネットでオンエアされていることに感激しましたね。
にゃらんたびは野生動物と追ったものでは全然無いんですけど。動物番組に関してはいまだに憧れがあります。動物番組と言いますか、生物関連の映像コンテンツですね。特にマイナーな生物を扱う映像はいまだに作りたいです。例えば、深海生物。その中でも例えば、死んで深海の底に沈んだクジラの死骸の中に一つの生態系が出来ている鯨骨生物群集とか、そういうあまり知られていない事にすごく興味があります。あるいは、土壌生物。私が作った『Shell and Joint』という映画の冒頭シーンの最初のセリフは「カニムシ」です。あるいは、森に住んでいるザトウムシ。とにかく形が不思議な節足動物です。あるいは田舎のゴキブリホイホイに大量にかかるカマドウマとか。そいうマイナーな生き物が本当に好きです。
この年は「赤星」というビールのWebムービーも作りました。にゃらんたびもそうですが、この赤星でも自分で撮影してます。20年以上ディレクターをやって分かったことは、私は出来ることなら自分でカメラを回したいんでしょうね。それが上手いのか下手なのかは別として。でも、仕事によっては私に課せられたミッションはそこではなく、現場を仕切る、香盤通りに撮り切る、みたいな事も多いので、そうなると自分で撮ってる訳には行きません。
2008年
田中麗奈さんとは一度でいいからお仕事をさせて頂きたいと思ってましたので、このゴールドクレストのCMの仕事が来た時には夢が叶ったと思いました。キャスティングの方に私と田中さんのツーショットの写真を撮って頂いて、田中麗奈さんのサイン入りで頂くことが出来ました。割と大きめの紙焼きでしたが、もちろん頂いた後、自分でスキャンしてデジタイズしてあります。そろそろもう一度高解像度でスキャンしなきゃと思ってます。田中麗奈さんとはそれ以来お仕事をしてませんが、いつか映画でご一緒出来たらなあと思ってます。
じゃらんの仕事は、撮影が毎年2回ずつありました。にゃらんは2匹の猫がやっています。1代目は数年前に亡くなり、今は2代目がやっていると思います。じゃらんの仕事をするようになってから、猫のCMの仕事のオファーがたくさん来るようになりました。「猫の扱いが上手いディレクター」みたいな見え方をするんだと思いますが、猫の撮影での一番のポイントは、撮影に適した猫で撮影出来るかどうかにかかってます。そして、どんな猫が撮影に向いているかと言うと、ジッとして動かない猫です。たくさんの猫をオーディションするんですが、ジッと動かない猫はあんまりいません。たぶんそういうのは、生まれつきの性格なんだと思います。動かない猫でやらないと、猫に大きな負担をかけてしまうので、猫にストレスを与えないという意味でも、おとなしくてジッとしている猫が良いんです。あとは、ディレクターが何をするかと言うと、長回しにジッと耐えられるかどうかなんです。猫をカメラの前に座らせて、静かにしてカメラを回し続けるんです。猫は左右を見たり、肉球をナメたりしてるんですが、たまにカメラのレンズをジッと見るんです。2秒ぐらいのカメラ目線が撮れたらOKになります。それまでジッと待つしか無いんです。
CHINTAIのCMでは小林麻央さんとご一緒させて頂きました。すごく透明感のある素敵な方でした。CMの仕事をしていると、本当に一期一会を感じることがあります。撮影のほんの1日だけ、その方の人生と交差する瞬間があるんですよね。でも、ほんの1日だけなんですけど、自分の人生に大きな影響をもらったりもするんです。
2007年
この年に作ったCMを見てみると、テロップがデカいんです。そしてビックリマークがあるんです。ラミシールのCMにしても、DocomoのCMにしても。とにかくテロップはデカくしたいと思っていましたし、とにかくビックリマークを付けたいと思ってました。そういう自分の中のブームってあります。そして、テロップをデカくしたいと言った時に、それを止めるクライアントは一人もいませんでした。たまに「ビックリマークはちょっと…」と言われることはありましたが。
そして、この年から始まったのがじゃらんのCM。割とこじんまりとした競合プレゼンから始まった企画なのですが、結果的に10年以上続くことになりました。私は10年ぐらいやって終わりましたが、このシリーズはいまだに続いています。じゃらんのにゃらんの声は最初から安齋肇さんでした。安齋肇さんの声は好きなので、チャンスあらばまた安齋さんにお願いしたいですねえ。
2006年
この年、遂にアントニオ猪木さんと仕事をすることが出来ました。CMの仕事をしていると、こういう伝説になるような方々と会うことが出来るんですよね。もちろん最高の敬意を払って撮影させていただくんですけど。そして撮影後、闘魂を注入していただくためにビンタの列に並びました。
小西真奈美さんとはDTIの仕事で、CMとWebムービーを作りました。Webムービーでは「ハル、クル、サイクル」という企画で沖縄に行って、2ヶ月間毎日更新する映像を作りました。猪木さんのCMもそうですけど、両方とも白ホリですね。私は割と白ホリが好きなんですよね。美術を作ってお金をかけたくないとかじゃなくて、白ホリにグッと来るんです。
2005年
この年はイチロー選手との撮影がありました。スポーツ選手の方々は、決められたセリフを言わせると、どうしても言わされてる感が出てしまうのですが、イチローさんは本当に自分の気持ちを言っているかのように自然に言える稀有な方でした。
ケーズデンキのCMでは、アンタッチャブルの2人と共に、まるでバラエティ番組の様なCMを作りました。広告代理店ではなく、放送作家の方々と作ったCMだったので、現場もADの方に入っていただき、テレビの撮影そのものみたいな感じでした。超弩級にくだらない企画で、現場では爆笑の渦でした。
私は撮影の前の日に、スタジオの近くのホテルに前泊していましたが、そこで親友の画家である石田徹也くんが亡くなった知らせを聞きました。私はホテルで大声を上げて泣き続けました。ホテルだから思いっきり泣けたのかもしれません。その夜、涙が枯れるまで泣いて、次の日のこの超弩級にくだらないCMの撮影に臨んだ事を強く覚えています。撮影の日の朝、外は大雨でした。
2004年
日清食品の麺の達人のCMでは、ハンマー投げの室伏広治さんに、巨大なレンゲを回して投げてもらい、ポチャンとラーメンが入ったカップの中に落ちるという企画です。室伏さんはハンマーを投げた後に「メーン!」と叫ぶんです。こういうマンガのような企画を、十文字美信さんに撮ってもらうことによって、凄さが出ました。くだらないのに質が良いCMに憧れてましたね。学生の頃からキンチョーのCMが大好きで、いつかキンチョーのCMをやりたいなと思っていました。キンチョーのCMは超絶くだらないのに、どれも質が良いんですよね。
なぜかこの頃から、スポーツ選手の仕事ばかりが来るようになりました。仕事って前例主義なところがあって、化粧品のCMをやった人は、化粧品のCMばかり、クルマのCMをやった人は、クルマのCMばかり、という様な事が起きがちです。私はこの頃、スポーツ選手ディレクターとして認知されていたのかも知れません。後に私は「猫ディレクター」として認知されるのですが。その流れがあってか、女子バレーボールの日本代表の方々の撮影をすることになりました。大阪方面の体育館に行って撮影した気がします。しかし、一流のアスリートの方々は、実際に会うと本当に一流のアスリートなんですよね。変な言い方ですけど。能力が半端無いです。
明治乳業のCMでは、14歳とか15歳の頃の本郷奏多さんでの撮影でした。その頃から、静かなのに芯がある、すごく存在感のある方でした。バッタを観察してスケッチしているという設定なのですが、スケッチブックの中身は私が自分で全部描きました。描きたかったんでしょうねえ。そういうの好きだから。
2003年
この年、カゴメの企業CMをシリーズで作りました。かなり大きなスタジオで大掛かりなセットで撮影したのを覚えています。バブルははじけてましたが、まだまだCM制作にお金がかけられていた時代です。このシリーズも普通に一本に数千万円使ってると思います。CMの制作費がドンドン下がっていき、一気に底が抜けたのが2007〜2008年のリーマン・ショック以降だと思います。
アスキーのCMでは、有名などじょうすくいの先生に、顔を描いたヘルメットを被ってもらいCMを作りました。どうじょうすくいの本場の安来まで行って撮影しました。キャッチコピーは「最新情報すくい取り」。心の底からくだらない企画を、クライアントと一丸となって作っていましたね。
三菱ホームのCMでは、次々に出てくるテロップを実物で作って、一発撮りで撮影しました。フーさんというこのキャラクターの声は安齋肇さんでした。予算があっても無くても、制作者の自主性みたいなものは尊重されていたし、クライアントと一緒に面白がれる時代でした。理解のあるクライアントに恵まれていたのかも知れませんが。
2002年
突然大きな仕事をする様になったのが、この年でした。G-SHOCKのCMで、オーストラリアにロケに行き、世界的に有名なカメラマンに撮ってもらいました。とにかく強い映像を作るために、照明の位置を大胆に決め、美術や滴り落ちる水にまで細かく指示をしていました。リアリティの追求ではなく、リアリティに見えるウソをいかに作れるか、という作り方でした。当たり前ですが、ものすごく強い映像になりました。
さらに大きな仕事として、この年から麒麟淡麗の仕事をする事になりました。CDはドラフトの宮田識さん。撮影は十文字美信さんでした。広告に詳しい方なら分かるかも知れませんが、このお二人と仕事をするって、本当にすごいことなんです。それも30歳そこそこの私に「監督をやれ」との事でした。「ヤバい事になった。ヤバい事になった。ヤバい事になった。」と思いました。それは喜びのあまりのヤバさではなく、そんな第一線の現場に私が参加することの不釣り合いにヤバさを感じたんです。それでも皆さん本当に素晴らしい方々で、本当に携われて良かった仕事です。クオリティを追求する姿勢の最高峰に立ち会った体験でした。この時は、サッカー日本代表を出すCMで、最初はゴン中山さんでした。私は中山さんと同じ藤枝東高校出身だったのですが、緊張のあまりそれを中山さんに伝えることは出来ませんでした。このシリーズは、稲本潤一選手、中村俊輔選手、高原直泰選手と続いていきました。
この年はもうひとつ大きな仕事をしました。日本生命のCMです。アニメーションの企画と、実写の企画の2本を同時に作りました。ツルとカメが出てくるアニメーションのCMの原画を書いたのは、MAYA MAXXさんです。あのアーティストのMAYA MAXXさんなんです。元々、MAYA MAXXさんの絵がすごく好きだったので、試しにプロデューサーに提案してみたらOKが出ました。そして、鶴の声は秋吉久美子さん、カメの声は安齋肇さんでした。こんな贅沢なCMがあるのかと思いました。
実写編の撮影はアラーキーさんでした。あの荒木経惟さんです。プロデューサーが「カメラマンは誰でもいいです。」と言うので、知り合いのカメラマンから順番に出して行き、次にCM界の大御所の方々を出していくのですが、プロデューサーが首を縦に振らず、ついにはアラーキーさんにたどり着いてしまったんです。フォトソニックという12倍で回せるカメラに、1000フィートのモノクロフィルムを詰めて撮影しました。あっと言う間に撮影は終わり、「日が暮れてまでも撮影してたら才能ないって事だよ。」と言って、颯爽と帰っていきました。あと「仕事で成功したかったら賞を獲りなさい。」と言われたこともすごく印象に残っています。
2001年
この年は筋肉番付スペシャルのオープニングを作りました。CGはWOWさん。まだWOWが仙台にあった頃だと思います。いろんな映画を見たり資料を探したりして、一つ一つのシーンを考えていった記憶があります。いま思えば、無茶苦茶な事をWOWの方々に言ってたんだなと思います。何が大変なのか分からなかった若い頃なので言えたのかも知れません。納品がオンエアの当日の朝って事にビックリしました。
三菱地所の仕事が始まったのもこの年でした。これは丸の内に丸ビルが出来て、それ関連のイベント告知だったと思います。丸の内仲通りにポインセチアをズラッと釣って浮かべるというイベントでした。これを企画したのが武蔵野美術大学の同級生で、今は博報堂ケトルの社長の船木くんでした。このCGもWOWさんにお願いしました。仙台のWOWに頼むと、仙台にCGチェックに行けて牛タンが食える、という魂胆もあった様な気がします。気がしますと言うか、確実にありましたね。
2000年
私が初めてCMディレクターの仕事をしたのは、タカラのリカちゃんのCMでした。初めての仕事だったので、すごく良く覚えています。コマ撮りアニメは真賀里文子さんでした。いきなり大御所の方との仕事でした。中学生の頃からコマ撮りアニメが大好きで、レイ・ハリーハウゼンの映画をよく見ていたので、仕事でコマ撮りアニメが出来ることに感激しました。そのアニメーション素材と、私がAfterEffectsで作るモーショングラフィックの組み合わせで完成させました。
私はモーショングラフィックが出来たので、そういう仕事をよくしていました。モーショングラフィックって言葉は、その頃とても新鮮で新しく感じました。今ではあんまり使われなくなくなってしまいましたけど。「ざっぴい」という雑誌のCMもアーティストのMVを何本かもらって、あとは私がデザインしたモーショングラフィックとの組み合わせで完成させたCMです。ざっぴいのCMはレギュラーで何本も作った覚えがあります。
同様に日興ビーンズという証券会社のCMも作っていました。これもモーショングラフィックを使ったCMです。オリエンを受けたら素材をもらって、ひたすら家に籠もってAfterEffectsの作業をするんです。ナレーションは風間杜夫さんでした。ナレーションのディレクションもしたので、すごく緊張しました。
仕事のかたわら、3DCGのソフトでアニメーションも作っていました。「Penix」というプロジェクト名を付け、いろんなメカのチンコが黒い空間の中をを飛んでいるんです。ピッカピカに光った金属製の亀頭や金玉がクルクル回りながら飛んだり、メカの精子を発射したり。真面目な仕事で稼いだお金で、ハイスペックなMacや3DCGのソフトを買って、こんな事をしていました。そこから何か仕事に繋がったかと言うと、全然何もまったく繋がりませんでしたけどね。
こうして、ザザザっと主だった仕事を並べてみました。もちろん、ここに出てきてない仕事もたくさんあります。最近の私は「映画推し」だったので、こういう仕事のプロフィールはあんまり表に出してませんでしたが、約20年間で自分が何をやってきたかが整理出来て良かったです。このnoteは、年を重ねるごとに更新して行こうとも思っています。毎年、何らかの仕事が更新できるように、仕事が続けられるといいなあと思います。
そして、このnoteを見た方と、何か新しい出会いがあるかも知れませんし。
「#noteクリエイターズファイル」でもご紹介頂いてますので、こちらも合わせてお読み頂けたらと思います。
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