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少子高齢化と危機感覚(陸奥新報「日々想」連載2回目)

 少子高齢化。ここ数年ようやく(建前上は)国の喫緊の課題として話題になってきた感がある(相変わらず政策は頓珍漢だが)。しかし、人生の大半を過疎地域で過ごしてきた人間としては「今更か。25年くらい遅いな」というのが率直な思いだ。

 私が東京にいて驚いたのは、「少子高齢化」という現象に対する人々の危機感があまりに薄いことだった。実際、東京都および首都圏は2023年現在、ほぼ一人勝ちの状態で人口を維持している(外国人含む人口)。だから実感が沸かない、というのがあるのだろう(参考:総務省「住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数 (令和5年1月1日現在)」)。

 地域の少子高齢化、人口減少が進むとどうなるか。単純にいえば「社会が壊れていく」のである。地域差こそあれ、住んでいるとその実感がある。地域社会を人の体に喩えてみる。首都圏のそれは、他地域からの人口吸収と海外からの「労働力」(=「人」とは見なしていない)搾取等のドーピングによって、だましだましその規模、機能を保っている(将来へのツケは確実に蓄積しているが)。一方、秋田県はじめ急激な過疎地域のそれは、高度成長期に出来上がった体格をもはや維持できず、骨はスカスカに、内臓も傷んだまま放置され、早晩斃れるだろうな、という予感がある。

 喩えから実例に戻る。何が起きているか。労働力が足りない。職場が回らない。若者が少ない。介護離職が増える。インフラが保てない。空き家が雪で潰れていく。集落が消える。同級生の店が潰れる。どこかの店が夜逃げする。商店街がシャッターだらけになる。地元の産業が衰退する。町内会が保てない。近所との地縁共同体が衰退する。若い世代は共同体の感覚を思い出せない。地域の将来に希望を抱けず都会に人が流出する。こうした事があちこちで起きていく。

 コロナ禍が始まった頃、私は東京にいた。都内では珍しく日中からゴーストタウンが出現した。ある人が言った。「人がいない、街が壊死していくようだ」と。その人はずっと首都圏に居る人だった。私は「こっちは子供の頃からずっとこれを見てきましたよ」と、言いたくて言えなかった。

 かくいう私も東京の街を歩きながら、その危機感を忘れている自分に気づくことがあった。頭では分かるのだ。しかし、身体的な実感が薄まるのだ。喩えるなら、沈みゆく船に立っている感覚、何とかせねばと焦り周りを見渡す、動物的危機感とでもいうべき感覚。それが、日々大勢の人間に囲まれることで確実に鈍るのだ。

 それでも身体の奥深く、呪いの様な呼び声が私にいつも思い出させた。お前が見ているのは砂上の楼閣だよ、と。お前の故郷は今も壊れ続けている。その破綻は、今お前の居る場所もやがて土台から崩し去るだろう。お前はどこでそれを見るのだ?と。

 私は北国へ戻った。劣勢の側に立つのが、私は昔から好きなのだ。特に後悔はない。

陸奥新報「日々想」2023年11月12日掲載分

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