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ケアに関わることで、自分を犠牲にしていないか?

子どもと関わる仕事に関わる全ての人に時々思うのは、

「自分を犠牲にしてまで、子どものケアに関わっていないか?」

ということ。「子どものためなら」と考え始めることには、本当に際限がない。おうちの人も、学校の先生も、福祉や教育に関わる人も。

変な話だが、「お前」とか「おい」とかって言われながら仕事をするのは、多分誰もがしんどいと思う。いわゆる子どもの「荒れ」に向き合うのは、なんだかんだ言って覚悟のいることだと思う。

子どものケアに関わると、当然しんどいことにも出会う。しんどいことに出会ったときに「しんどい」と気持ちを分け合える相手がいるだろうか?

一瞬でもその場から離れられれば、少し気持ちを落ち着けることができるだろうが、その一瞬が作れなかったりする。そんな一瞬くらいで、と思うかもしれないが、離れて違う空気を吸うことで解決することってたくさんある。

ボクのことで言うと、やはり子どもと関わる・人と関わるという仕事は自分にとってライフワークの1つとなっていくことは間違いない。

とはいえ、その「やさしさ」「引き出し力」は、マインドを切り替えてスキルとして身につけたものでもあるから、ずっとその状態でいることは、頑張っている状態でもあったりする。

とっさの反応として、誰よりも瞬時にそのとき一番の最適解を出そうとすることはできるが、それも身体知・熟練エキスパート的な立ち振る舞いなのだ。

教員時代に思っていたことで、「なぜこの子たちの育ちを1人で背負わなければならないのだ?」「自分がこの子たちのこれまでを育ててきたわけではないのに、なぜクラスが荒れているように見えると自分が責められるのだ?」などと思った。

そういうしんどいときこそ、責めるのではなくてサポートが必要なんじゃないのか?と。

助けて、と言ってもなんとなく流されたりとか。

そうやって声をあげてもなかなか拾ってもらえなかったりとか。

そういうことが積み重なっていくと、しんどくなったり、愛して欲しいという欲求が過剰になったりするのかもしれない。

自分を犠牲にしてまで、ケアを続けていくのはやめにしませんか。

もっと自分のことも大事にできる環境を作っていきませんか。

「大丈夫です」と言わなくてもいい自分、サインや心の声を発してもいいんだと思える自分に出会っていくことが、これから必要なのかもしれません。

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