『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』13
【噂と真実】
いったん東京の実家に帰ったはいいが、なぜか、落ちつかない。
兄の圭吾からしつこくあちらの様子を聞かれたのだが、菅田の件については全く知らぬ存ぜぬを通して適当に受け答えていた。
「で、結局ネコムスメとかにも会ったんだろ? どうだったんだよー」
と突っ込まれ
「だったらアンタが行けば?」
と冷たく答えてやったものの、やはり、落ちつかないのには変わりがない。
どちらにせよ、一週間もしたらあちらに戻らねばならない。入学が決まっているからには、また、準備に戻らなければならないのだ。
それに、どうにも気になることがひとつ。
自室で机に向かっている時、ベッドでスマホをいじっている時、ふと、窓から、ドアの方から、何かが覗いているような気配を感じることがしばしばあった。
菅田はおろか、誰かが病院で飛び降りをしたという件はニュースにもなっていない。
ネットも色々と検索したが、事件事故の記事でも、単なる噂でも、まるで該当する話に行きあたらないのだ。
そのくせ、『覗かれている』という気配は日に日に濃く、粘り気をおびてきた。
一週間もしないうちに、また、団地に戻る日が来た。
「もう、ひとりで行けるよね」
最初からあまり気乗りのしていない母からそうあっさりと言われ、別について来られてもどう対処していいのか分からないヒワは、別に、と口の中で答え、またひとり、元白鳥へと向かった。
不思議なことに、家を出ると間もなく、イヤな『気配』は薄紙を剥いだようにすっきりと消えていた。
しかし……ヒワの胸のつかえはそれほど減ってはいなかった。
また、あの『場所』と向きあわねばならないのだ、真正面から。
菅田の話はあっという間に団地内に広がったようだ。
しかし、やって来たケンイチがもたらした内容は、ヒワにとってまったく理解できないものだった。
「菅田、元カレがおしかけて来て、病室で言い争いになったって」
「いつ?」ヒワは無理やり押し込めていた病室の情景を思い出す。
ヒワが訪れる前に、元カレが来ていたのだろうか?
でも、顔を合わせたりすれ違ったりという覚えはまったくない。
「飛び降りるすぐ前に、で、ソイツが菅田を刺して、菅田は助けを呼ぼうとして外に飛び出して、間違って窓やぶって」
「誰から聞いたのそれ」
「団地に、病院に勤めてる看護師がいて。階は違うけど六階の同僚から聞いたって」
「うそだ」
ヒワは思わず大声を出した。
「何それ、全然おかしいんだけど。あの子、自分で自分を……」
この話はとりあえず、俺とオマエと、じいさんだけの話にしておこう。あと、知っているのは目玉ババアだけなんだけど……そう言いかけたケンイチに、ヒワは食い下がる。
「でも棟のナースとかも見てたはずだよ、それに元カレって何? どっから湧いてきたの」
「非常階段の途中に座っていたのを逮捕されたんだって」
ぞくり、と背筋が凍る。
それならば、ヒワだって遭遇していたかも知れないのだ。
「代わりがきた」って言うのは、元カレの犠牲者の代わり、ということだったのだろうか?
それでも変だ。彼女は、恐怖におびえながらも、確かに自分の手で、自分を刺したのだ。
「どうして、そんな話に? 私、本当にアレを見たのかな、でも実際にあの子」
「うん」
ケンイチが聞いた話では、菅田は元々、家出をするつもりで荷物をまとめてあった。学校の部活が終わって、荷物をいったん取りに家に戻り、また家を出て、多分団地の入口あたりで待ち合せをしたらしい。家族には、帰るつもりはない、とメールが来ていたそうだ。
発見されて入院してから、警察が何度も来て事情を尋ねたようだが、菅田はほとんど口をきくことはなかった。携帯含め、荷物は全く発見されず、つきあっていた相手がどこの誰かも全然手がかりがつかめなかった。
左目を失ったのは失踪してすぐだったようだが、予後は良好だったそうだし、それ以外には大きな外傷もなかったため、一通り治療と検査とが済んで落ちついたら一時退院するべく、手配中の出来事だったのだそうだ。
転落から二日後に意識が戻らないまま彼女は亡くなった。
始め傷害容疑で、のちには傷害致死容疑で逮捕された男は、素直に彼女を刺した罪を認めているという。
彼女を言葉巧みに誘い出し、拉致監禁していた疑いもあり、警察は更に男を追及する方針なのだそうだ。
しかしなぜか、メディアには一切、報じられていないのだという。
「何だか、自分が一番信じられない気分だ……」
ヒワは思わずぽろりとそうこばした。
「ついこないだ、見たばかりのことなのに、何だか、悪夢みたいな、というか、ほんとにあったことなのかな」
ことばにすると、どんどんと自信がなくなっていく。乾いた砂で城を築いているようだ。形にしようとすればするほど、やっている意味すら見えなくなってきそうだ。
ケンイチが、えへん、と咳払いして言った。
「俺は信じるよ、ヒワの話」
ヒワが顔を上げると、ケンイチはまじめな顔でヒワをまっすぐ見ていた。
「え、なんで」
予想していなかった返事だったようだ、ケンイチは急にうろたえた。
「え、だ、だってさ、昨日から何回か聞いてたけど、つじつま合ってるし、それに、じいさんも」
あ、とヒワは急に気づいて真っ赤になる。
「あ、そういうことじゃなくて……あの」
ありがと、とヒワは地面に向かって小さな声で言った。ケンイチの返事はもっと小さくて、ほとんど聴き取れなかった。
ヤベじいは急用が入ってしまい、結局その日はヒワの家に寄れないとのことだった。
ヒワは、東京に帰ってからもずっと付きまとうような気配を感じていたことをケンイチに話してみた。
「何だそれ」ケンイチは眉根にしわをよせる。「気のせいとかじゃ、なくて?」
「自慢じゃないけど、案外、心霊現象とか鈍い方なんだけどね……どうもなんか」
「どうもなんか?」
「アタシたちさ……何となくだけど」
ヒワの目は何とはなしに大山の姿をとらえていた。
「ここからは決して、逃げられないんじゃないか、って気がする」
「それはさぁ」ケンイチはあっさりと答えた。
「ずっと前からオレもそう思ってたけどね」
しかし、ケンイチが「これじいさんから」と手渡したものを見て、ヒワは思わず笑い出した。
スーパーで売っていたらしきあんまん四個入りの袋に、近くのお寺のものらしい守り札がくくりつけてあった。
ずっと昔、ヤベじいから「ヒワちゃん何が一番好きだ?」と尋ねられた時に
「あんまん!」と力強く答えて大笑いされた。
それを今でも覚えてくれていたのだろう。
「なんか、だいじょうぶな気がする」
ヒワはお守りに長いチェーンを通し、ネックレスの代わりに首にかけた。
菅田吉乃の葬儀は行われなかったそうだ。家族葬すら、あったのかどうかヒワには伝わってこなかった。
菅田家は彼女が行方不明になってからずっと自宅を留守にしていたので、吉乃の両親がどこで何をしているか、団地の同じ組の連中ですら、全く預かり知らぬところとなっていた。
逮捕されたという男の噂すら、全然耳に入ってこなかった。
しばらく静かな日が続いた。
待ちに待った連絡がきて、ようやく自転車も元通りになった。
学校説明会には智恵が同席して、その後の備品購入も何くれとなく世話してくれた。
学校が始まらないと選択する授業のめどもつかない。授業が決まらなければ教科書などの購入もできない。とりあえず、何を選択しても困らないように、城南時代に買った教科書を久々に開いて、自主学習で日を暮らした。
菅田吉乃の件も、自分が実際に見聞きしたものよりも、ケンイチから聞いた話の方が、なぜか真実なのでは、と思い始めていた。
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