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待ち時間のつぶやき
病院の予約時間とは何ぞや。
と、思いたくなるくらい何故かいつも待つ。60分時には90分と。
当然ながら予約をしてから受診する訳だが、いつもいつも待つ。
コロナ禍前は予約無しも受け付けており、私はわざわざ予約を取らずに行く事が多かった。当然その時は待ち時間はあるものと自覚していたわけで、時には60分は平気で待たされた。しかし文句などは無かった。それは予約していないと言う不利があったからだ。
そりゃそうだと思う。予約して来る患者は、おおよそその時間に呼ばれる訳だから、予約無しの私が待たされたとしても納得のいくことであった。
がしかし、今はコロナ禍は過ぎたのだが病院は引き続き予約体制をとっている。私もそれに関しても悪い流れでは無いと思い、それに素直に準じた。
しかしだ、予約しているのにも関わらず、60分90分と待つのは、幾ら何でも変ではないか?と素直に思う。
コロナ禍前の予約無しの待ち時間とコロナ禍後の予約有りの待ち時間が同等とは、如何ともし難い不条理があるとは思わんか。
ま、そんな高齢者が多い訳だが私は高齢者ではまだ無い。
高齢者のようによく言われる待てない癖とは明らかに違う。
何故なら私は待てるからである。
そう。私は待てるのだ。待てる人間なのだよ。
だからこうして先ほどから、ずっと80分程待っている。
待っている。
待っている。
尻が痛い。
この何と言うか、理不尽にも思えるこの現象の説明を看護師に聞いたところで解決するとは到底思えないのだから、私はそれを聞かず、ただじっと文庫を読み続けているのである。
こう言うときに読む作家は、太宰治は候補には上がらない。虚しくなるからだ。北原白秋のような詩を読むべきか?否それも合わない。それなら誰の執筆を読めばいいと言うのだ。
難しいのはダメだ。ライトノベルがこう言うシチュエーションには良いかも知れぬ。
そう思い、私は猫が頻繁に出てくる小説を読む事にした。青山美智子さんの神のおつげは樹の下で、を読む事にした。私も家に三毛猫が一人居るし、猫の話だったら共感出来る事も多いだろうし、心も意外とリラックス出来るかも知れないと思ったからだ。
主人公となる男は、近くの神社に行き、そこに座している大木の樹の近くのベンチに腰掛けていると、そこに何処からともなく一匹の猫が現れる。そして何やら仕草をして去って行ってしまう。そこへひらひらと落ち葉が舞い降りて来ると、その葉脈に何やら文字が書いてあり、それはまるで御告げのようであった。
そこから話は展開して行き、主人公はある時偶然その落ち葉に記された御告げを思い出すのだ。あ、なるほどそう言うことだったのか…と転結するのである。
うむ。そうですかと自分に感嘆符を打ちつけるのだったが、そこまで。
ちっともリラックスなんぞ出来ない。尻がますます痛さを増して来るだけだった。
しかし、現代は猫の空前のブームであり、日本中の敢えて猫人口と表現するが、空前絶後の家猫人口が野良猫を上回ったと言う我が国ニッポン。素晴らしいのやら何やら。私は良いことだと思っているのだが、その猫様も小説となるとパワーが半減するのか私に届かなかった。
やはり猫は実物でないと彼等の癒しビームは効果が発揮出来ないのかも知れぬ。
そんな新たにこそばゆいストレスを加味しながら、私たは待つのである。ひたすら呼ばれるのを待つのである。頭の中には、あと10分で自己ベストを更新するな…などど思いながら。
かくして名が呼ばれ受診すると、診察時間はたったの3分。
診察室を出る際に医師に挨拶をして、再度ベンチに尻の痛さがまだ残っているうちに座らなければならぬのである。
今度は会計だ。
掲示板を見あげると、私の番号は…あ、あれか。
20人程前に居るようだ。
この調子だと呼ばれるまで30分以上は平気できるなと、深く落胆した。
人の気力と言うのも、まあよく保つなと、時々関心しながら私は猫ではなく予備に用意した別の文庫を取り出して読む事にした。
なんて言うか、病院の日と言うのは読書の日なんだなぁと、身体から痛みと共に偏屈な結論が出たりしたのだった。
アーメン
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