新谷隼人は、こうやって出来ました①

前回、新たに始めたnoteで私の所属する株式会社プラザクリエイトの理念みたいなことを、本当に触りだけですがお伝えさせていただきました。

プラザクリエイトの代表取締役になって約2年、会社の、そして自分の現在地を確かめるために、というわけではないですが、自分の過去について話させてください。思考整理のために過去の話をするのも悪くはないのかな、と思いつつ、ちゃんと面白く読んでもらえるように努めます(笑)。


大阪で生まれたサッカー少年が、故郷のチームを捨てる理由

私は大阪府は寝屋川というところで生まれて育ちました。私の家族は、父、母、3つ上の姉、そして私という構成。いわゆる普通の2人姉弟だったのですが、少し普通と違ったのは隣の家に従兄弟家族も住んでおり、ほぼ二世帯家族のような生活をしていたことです。従兄弟2人も私より年上で、スポーツでも遊びでも勝てなくて、ごまめ(※遊びなどでハンディをつけられる子)扱いされていたことがすごく悔しかったことを覚えています。自分より大人な3人の兄姉たちに、追いつこうと日々もがいていましたね。

そんな自分が、上のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと違うことをしたい、と思って同い年の幼馴染を誘い小学校一年生の時に始めたのが、サッカーでした。地元のサッカーチームに入り、そこに同じ小学校の子たちも集まってきて、だんだんと大きいチームになっていったのですが、始めたのが早かったこともあり、私と幼馴染が中心となったチームが作られていました。
自分でいうのもなんですが、私は結構上手かったんです(笑)。チームも地元の周りでは敵なし、街の中では最強!という感じだったのですが、ある日、大阪のクラブチームと試合をする機会があり、そこでボッコボコにやられました。12−1とかのスコアで。いかに、自分が井の中の蛙であったかと思い知りましたね。そこで、もっと上手くなりたいならここに行くしかない、と思い四年生からクラブチームに移籍しました。

狭い世界だったので、元のチームから離れることを非難されたりもしました。それも、チームメイトからだけではなくその親御さんからも「裏切り者」って呼ばれたり(笑)。一番仲の良かった幼馴染とも、数年間は絶縁状態になりましたね。

それでも、より強くなれる、より上手くなれる環境に行きたかった。この選択の根っこは、今の自分の性分の根幹であると感じます。例え周りに否定されても、明確に上だと思える組織や空間があるなら、そこに身を投じていきたい。それは社会人になってからの自分にも繋がっていきそうです。

ただ、それも全てがいい変化である、とは限らないことも、もちろんわかっています。

新しい世界に入るたびに、挫折が待っていた

まず、ユースチームに入って衝撃だったのは、みんなが勉強をめちゃくちゃしている、ということです。サッカーのことに限らず、学校の勉強も休まず頑張っている。自分は強豪のサッカーチームなんてものは、本当にサッカー漬けの毎日を送っているのだと思っていたので、これにはカルチャーショックを受けました。

理由を聞くと、サッカーの強い中学・高校へ進学する可能性とその選択肢を捨てないために、普段から勉強をしているとのこと。影響されやすいタチですので、早速私も塾に入りました(笑)。それまで自分は勉強が不得意だ、と思って生きていたのですが、やっていると結果もついてくる。学校とは違う塾の教え方も性に合っていたのだと思います。毎日夜まで練習してその後塾に行く、という生活も苦ではありませんでした。

サッカーにも、勉強にも今まで以上に真剣に、時間をかけて取り組む日々。それでも、いやそれだからこそ感じたことが一つありました。それは、自分はプロにはなれないだろうということ。地元でも一番上手くて、将来はプロサッカー選手になる、と夢見てきた自分は、精鋭集団の集まりの中で本当にプロになれる存在ではないんだなと「理解」してしまいました。改めて考えると、そのチームには後に日本代表で活躍する選手の候補が居たので、今考えれば当たり前の話ですね。

そんな中で絶望を抱えながらもサッカーをしていた自分ですが、引退するタイミングは突如として、訪れました。相手のタックルにより膝に重傷を負います。この怪我が元で、サッカーから引退することになるのですが、この時に感じたのは悲しみ、ではなく安堵でした。

「ああ、これでもうサッカーをしなくて済むんだ」という思いの方が強かったです。大好きだった、上を目指していたサッカーは、いつの間にか自分を縛り付ける大きな鎖になってしまっていました。

これで勉強だけでも上手くいっていればいいのですが、同じくらい勉強も挫折も感じることがありました。塾の中でも成績が良かった私は、校舎を変えて進学クラスのあるところに行っていたのですが、そこでは下の成績から抜け出すことができなかったんです。サッカーもそうなんですが、上のカテゴリに行けば行くほど、自分が逆立ちしても勝てない人間が存在する。学校では成績は上だし、内申点もいい。それで関西の難関進学校に行きたい、と思ったんですが、これも見上げればキリがないほどの人がいる、と思いました。

ありがちなサクセスストーリーは、私には待っていませんでした(笑)。勉強もサッカーも、自分に上のカテゴリの面白さ、そして大きな挫折を与えるものでした。

大人の期待に応えたかった、で動いたのは間違いか?

勉強でも上のカテゴリで結果を出せなかった自分は、下のカテゴリに戻ることになります。地元の校舎に戻り、地元の中学での生活が中心になる。そうすると、かつては絶縁状態だった地元の友人達との縁がまた戻ってきます。どちらも挫折した自分でしたが、それでもその経験を活かして勉強を教えたりすることができた。それが「個別指導塾」みたいな形になって、今度は仲間の成績を上げることが楽しくなってきたんです。

かつて、私を裏切り者扱いした(笑)大人たちも、「新谷君に教えてもらうと成績が上がる」と大絶賛。今だったらふざけんじゃねぇよ、って話なんですけど、当時は大人に喜んでもらえることが嬉しかったんです。とはいっても、出題されるドンズバのところを当てないと、みんなの成績は上げれなかったんですけどね。

この、「大人の期待に応えたい」というのは私の大きなモチベーションだったと思います。それは保護者だけではなく、自分より年上、当時でいえば20代の若者なども入ってきて。サッカーを諦めたけど運動はしたかった私は、地元のお兄さん達と一緒にスノーボードにハマったりしました。
当時の自分よりわかりやすく経験豊富な人たちが、いいというものを試してみたかったんです。

大人の期待に応える、というのはある種自分がないように映るかもしれません。でも、自分にはない視座を持っている人たちと行動することは自分にとってプラスだと感じたんです。

おカネを稼ぐ高専時代、次回に続く!

ちょっと長くなってきたので、中学を卒業して高専に入ったことはまた次回に書こうと思います。
この後、今につながる「おカネを稼ぐ楽しさ」に繋がっていくので、よければ次も見てやってください!



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