低空飛行

 病気になったとて意欲が全消滅したということでもないようだ。やってみたいと思うことはいくつかある。例えば学生時代に齧った程度の語学をもう一度勉強したらどれくらい上達するかとか、事務職経験で培ったパソコン操作レベルの証明としてMOSを取りたいとか、最近特に大切にしている香りについての知識を付けてアロマテラピーの資格を取ってみようかとか。
 行ってみたい場所もある。水族館と美術館ときれいな海とおいしいもの。ネットでも雑誌でも情報を見つけると、行ってみたい場所リストに加えている。この病気では生活リズムを乱すことには慎重にならなくてはいけないと聞くが、旅行でも無茶はしないようコントロールできると思う。ただ体力がもう少し回復してくれたらとは思う。
 要するに取り掛かるまでの気力がないのが現状だと思う。その日その日をどう過ごすかで頭がいっぱいで、意欲のまま前のめりになるほどのエネルギーは持ち合わせていないらしい。勉強はいつでも始められるように教材を用意しているし、ひとりで思い切りくつろぐために年数回外泊するので旅の用意には慣れてきた。はじめの第一歩、がなかなか始まらないのだ。
 学生時代に履修した講義である日「モチベーションの測定」なるものがあって、私は履修者の中で最も低い値をたたき出した。つまりモチベーションがいちばん低かったのである。ちなみに自慢ではないが、いわゆるFラン大だったとはいえ、私はモチベーションの低さを維持したまま首席卒業した。
 だから意欲の低さはきっと昔からだ。今に限ったことではないし、病気故でもないだろう。そのおかげで現状を他の人よりは受け入れやすくなっているとも思う。いろいろなことができなくなっても、絶望の深さがおそらくマシだったはずだ。とにかく自分を追い込むようなことはしないのがポリシーだったのだから。
 今はちょっと暇だし生活にハリが無いな、でもやりたいことを始めるほどの元気はないな、というところで、ぐずついている。ただそう思うだけでも、少しは欲が出てきているようにも思うのだ。海面すれすれを着水しない程度の速度で滑るように飛ぶ鳥のような、そんなイメージがわく。いや、鳥のほうがものすごく努力して飛行しているか。
 専用のマーカーペンまでそろえて、ようやく本を開くところまで進んだ。ひとまず手を付けた目標については二カ月くらいが目安かな、と見通しを付けてみた。ただゆっくりと、低空飛行で。小さなことから始めてみればいつか、気流にうまく乗れるかもしれない。