ロマン的イロニーとホイジンガの「遊び」。主体が虚構である点においては同じなんだよな。
エリオットの伝統論にしても、受容する対象と主体の間には断絶が見られる。
再解釈の結果生まれる虚構が、現実との格闘を乗り越えられるか。結局はそこなんだろうな。

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