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リアリティ、この劇的なるもの

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 脱輪氏の『わたしたちはなぜフィクションと仲良くなれるのか』という文章を読んだ。我々が普段から触れている芸術作品、その中でも映画に感じられるリアリティの正体をめぐる考察である。

 氏は人間の認識能力を通して捉えられる「現実の表象」と、作品として意識的に生み出される「虚構の表象」を区別する。人々は前者を自明視し、当然の前提として日々経験し生きているけれど、その認識は正しいのだろうか。氏は我々に対し、「わたしたちが普段経験している現実もまた、ひとつのフィクションなりストーリーではないのか?」と問いかけるのである。彼が深く影響を受けたという、ジャック・ラカンの理論を彷彿とさせる。人間の認識能力に歪められないありのままの現実、「一次的な現実」という概念を氏は提唱し、それは「常に残酷かつ理不尽で、互いに関連性を持たない無意味なもの」であり、「わたしたちはその意味のなさに耐え抜いていくことができ」ないのだと説く。かくして「わたしたちは自分でも気づかぬうちに現実を二次創作している」という主張が導かれる。氏は精神分析の理論を通して、人間はフィクションなくして生きられない動物だという認識に至ったのである。

 ヨハン・ホイジンガ曰く、人間はルールという制約のなかでこそ自由を獲得し、虚構との「遊び」としての文化を発展させてきた(「遊び」におけるルールは、ラカンのいう「象徴界」としての他者と言えるのだろう)。そしてもう一人、人生と芸術を総合的に論じた福田恆存の主張が思い起こされる。

 「人生は舞台、人はみな役者」という名言を残したシェイクスピアの演劇観を基礎とし、『人間・この劇的なるもの』は著された。我々は人生に、「自我が完全に消滅し、同時に、自我を十分に主張しうる」瞬間、劇的な瞬間を求めている。「喜びにせよ、悲しみにせよ、私たちは行けるところまで行きつくことを望んでいる」のである。この生命の燃焼への欲望は、ラカンが言うところの「享楽」に当たるのではなかろうか。そうして、「現実界」と合一する強烈な「行為が完全に燃焼しきったところに無意識が訪れる」。同じく福田が著した『藝術とは何か』で言及されている、アリストテレスのいうカタルシスである。

 カタルシスを味わうために、我々は人生の演劇化を目論む。演劇という「遊び」が成り立つために、「象徴界」としての他者たるルール、ここでいう文脈・コンテクストが求められる。「互いに関連性を持たない無意味なもの」としての「一次的な現実」に対する解釈が求められる。このようにして人間は演じる役割を、つまり必然を欲しているのだという考えは、「自由」概念の運用上の失敗を日本社会に見る脱輪氏の主張とも響き合うものであろう。先ほど、脱輪氏の議論を通して、福田恆存の主張を想起したと述べた。人間にとっての現実と、まったくのフィクションである芸術を比較して論じるその態度に、福田との類似を見いだしたのである。

つまり、人間が日頃からストーリー化された現実=現実の表象によって構成された世界を生きているからこそ、わたしたちは、フィクション化された現実=虚構の表象のあり方に親しみを感じ、わたしとよく似た人物の物語から、わたしとはかけ離れたものたちが活躍する今・ここではない世界の物語までを、あたかも自分のことのように楽しむことができるというわけなのです。

わたしたちはなぜフィクションと仲良くなれるのか?
〜(『美男美女映画対談』のための事前アナウンス)〜

 さて、『わたしたちはなぜフィクションと仲良くなれるのか』を論じるに至った脱輪氏の問題意識は明確であり、文中にて指摘されている「ルッキズムの問題」なるものが、昨今浮上しているからである。氏は人間の人生における「現実内リアリティ」と芸術作品における「虚構内リアリティ」を区別し、前者において適用させる倫理を後者にも同様に当てはめることの危うさを指摘している。

 僕に言わせてみれば、作品の価値を倫理や政治思想といった物差しで測ろうとするのは芸術に対する「現実」——認識者の趣向による産物としての——の侵犯であり、ましてや問題があるとされる作品を生み出した芸術家を社会から排斥したり自粛へ追い込むような行為は、一人の文人として到底認められるものではない。このような乱暴狼藉は、決してまかり通ってはならぬ。表現というものは、規制によってその価値を担保できるような質のものではなく、政治の限界を踏み越えようとする文化主義は、遂にはスターリニズムによる文化の破壊へと至るのである。本人の名誉のためにここでは名前を伏せるが、とある詩人が旧Twitter(X)にて、炎上したMrs.GREEN APPLE「コロンブス」のMVに触れ、「文化とか歴史とかを学ぶのは他人を傷つけないためでもあるな、と思った。文化や歴史を学ばない人は、他人を傷つけうる」と発言していた。呆れ返った僕は引用リツイートで「それは芸術ではなく、政治や倫理についてのお話ですね。芸術は他人を傷つけるものですよ。癒すだけではない。そんなことを仰るのならば詩人をやめて、政治活動家にでもなられてはどうですか?」と述べ、公開アカウントで堂々「加害」をさせてもらった。人間は幸福というよりはむしろ「享楽」を求めているのだと、芸術から教わらなかったのだろうか。

 英雄の生命力と気宇壮大は、加害性と表裏一体である。英雄の影響力を加味せずして、歴史という物語の文脈は読み取れない。近年の歴史学による英雄の排除は、歴史を単なる事実の集積へと解体するのである。学問上の文化大革命に我々が付き合う義理はない。英雄の偉大を文学として素朴に味わってよいのである。福田恆存は『オイディプス王』のうちに、英雄になりきることによって英雄願望を浄化させる、芸術の徳用を見ている。逆に英雄願望の否定は人心のうちに抑圧を生み、内側から腐食させていく。結果としてポリティカル・コレクトネスはスターリニズムを生むであろう。現にポリコレ棒を振りかざす者たちは、そのイデオロギーによって、自分たちをスターリンたらしめ続けているのである。呉座勇一氏のオープンレター事件に巻き込まれ、アカデミズムからキャンセルされた山内雁琳氏は、真理を体現する唯一の前衛党が大衆を指導すべきだとするマルクス=レーニン主義とポリコレの類似性を指摘している。

 外山恒一氏によると西暦1995年の地下鉄サリン事件以来、わが国は権力対テロリストの「まったく新しい戦争」の戦時下にある。テロルを警戒するのは人心の自然だけれども、それを恐れるあまり隣人同士監視し合い、自他を萎縮させ生命力を衰えさせるのは愚の骨頂である。テロリズムの語源が、フランス革命時の恐怖政治にあることを忘れてはならない。僕はあくまで文人の立場から、芸術の徳用とそれを通して現れる真の自由の精神を訴え続ける必要を感じている。

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